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老練の医療

稲福薫

いなふくクリニック 稲福 薫

80 歳半ばを過ぎてなお現役ばりばりで働い ているというある開業助産師の話がテレビでの ニュースにあった。彼女は患者さん達から「神 の手」と称されているようで、逆子をたちどこ ろになおし、どんな妊婦さんにも幸せなお産を もたらしてくれるという。若い人たちがあんな 助産師になりたいと目を輝かせて後ろ姿を追っ ていた。そこに現代医療を越えた医療の姿を見 たような気がした。

医学は日進月歩で進んでおり、少しでも油断 をするとすぐ時代に取り残されそうになる。特 に、大学などで最先端の医療を追求しているも のにとっては、世界中の文献に目を配り、世界 の最先端医療を取り入れるよう努力するのは最 も重要な仕事の一つであることはいうまでもな い。そして、それは年を追うごとに重要性を増 している。大学関係者だけでなくわれわれ開業 医もまたそうであり、医者であれば誰でも、時 代の最先端の知識を逃さぬよう日々努力してい るだろう。

しかしながらである。そのような膨大な知識 が積み重ねられ進歩したはずの医療の世界も、 なぜか時代を追うごとに問題が山積し、次から 次へと大波のように難題が押し寄せてくる。人 を幸せにするはずの医療が何だか変な方に向か っていて逆に医療が不幸を編み出しているよう な気がすることさえある。

なぜだろう。それは医療の本質的なあり方に 問題があるのではないか。原因は色々と指摘さ れるだろうが、根本を突き詰めると、知識偏重 型の現代医療に原因があるような気がする。

というのも、人間存在の基本は知識の蓄積だ けで済むものではない。どんな文化でも、文化 がただ知識の蓄積だけに終始すると次第にいび つなものになっていくのではないか。これは現 代文明の根源的な問題なのではないか。文化の 根っこには絶えず変化していく知識を超えて、 どんなに時代が変わろうとも決して変わること のない何かがある。それは建物にとっての礎で ある岩盤のようなものである。それを忘れると いつのまにか変な方向に行ってしまい、それに も気づかなくなるのではないか。

特に医療は人間を相手にするものであり、人 対人の関係が基本にある。そして、人対人の関 係は決して知識で解決できるものではなく、む しろ知識を超えた部分のほうがはるかに大きく て重要である。例えば、人の幸せにとって不可 欠な愛情や心の疎通などというものは、むしろ 知識を脇にどけて黙して感じるものである。

われわれの拠って立っている地球は一人の人 間に比べるととてつもなく大きくて絶対的な存 在のように見えるが、その頭上にはまるでその 地球がほこりの一かけに相当するような無限の 宇宙がひろがっている。そんな宇宙は、われわ れ人間とは一見無縁なものに見えるが、まぎれ もなくそれは頭上の空なのである。空がなけれ ば人間は生きることはできない。同じ様に、と もすれば人間は、これまで蓄積してきた知識を 絶対視してしまいやすいが、現実には、その知 識に比べると未知なる部分のほうが何百倍も、 何千倍も、いや無限に大きく、人間はそれに拠 って生きて、生かされているというのが事実で ある。しかしながら、とかく人間は空の大切さ を忘れてしまうものである。

ところで、人間には二通りのタイプがあるの ではないか。知識がすべてとしてそれに全面的 に依拠する知識偏重型の人間と、蓄えた知識の 限界に気づいている人間である。老いてなお前 者であり続けると、次第に苦しくなってくる。 というのも、知識は蓄積物であり蓄積したもの は必ず失われる。そして、老いとともに死が近 づくにつれそんな拠って立つ己の存在根拠が無 理矢理に奪い去られていく。多くの人が老いる につれ恐怖と苦悩で顔が次第に醜くなってくる のはこれが原因ではないか。

それとは逆に、老いとともに輝きを増す人もいる。その心は己や、己の知識を超えたものの 存在に気づいているのではないか。そこから、 この世界や人間への謙譲や畏敬の念が自然に湧 いてくる。そこに老いの真髄があるような気が する。

だからといって知識が不要と言っているので はない。知識を全力で積み重ねていってはじめ て、その限界をも知ることもできるだろう。孔 子も、十有五にして学を志し、五十にして天命 を知った。若い頃には懸命に知識を積み重ねる 時期が必要であり、決してそれを軽視してはい けないだろう。そうしてはじめて、次の段階へ とジャンプする踏み台にもなり、そこには順序 というものがあるのかもしれない。そのように して立派に建てたはずの建物も長年の風雪にさ らされ次第に朽ち果てていき、ようやく礎の岩 盤が顕わになってくる。そこに老いてなお働く ことの大切な意味があるのではないか。

しかしながら最近の世相は、そうはなってい ない。ともすれば、60 歳を過ぎると現役から引 退するのを余儀なくされる風潮があり、そして 年金生活者となり、若者達におんぶに抱っこを されて生きるという老人像がはびこっている。 さらには、老人が保育園児のようにつまらない 遊戯で暇つぶしをさせられている。これこそは 現代の悲劇ではないか。人間の過去の歴史の中 で老人が遊んで暮らした時代はなかったはずで ある。古来、老人はどこの社会でも若者達が決 して手に負えない部分を引き受け、解決すると いう重要な社会的役割を果たしてきた。これが、 社会全体が落ち着く原動力ではなかったか。

アフリカでの野生象の話がある。象は集団生 活をする動物だという。老いた象を失ったある 集団が若い象だけになってしまい、集団が暴走 して始末におえなくなってしまった。そこで、 別の集団から老いた象を連れてきて加えるとた ちまち集団が落ち着いたという。老いにはそん な力があるのではないか。すなわち、老練とは 事の本質をとらえる力であり、全体を見渡す眼 力ではないか。そしてそんな力は己の死を自覚 できる老境になってはじめて身につくものなの かもしれない。そこに老いの意味があり、老い の美しさがあるのではないか。

ところで、なぜ老人が医療現場の最前線にお れなくなったのだろう。それは、知識偏重型の 医療が全盛になり、医者が知識に振り回される ことで肉体労働者化し、逆に体力のない老人医 師はそんな医療についていけなくなり、さらに は知識偏重型の医療が老人の英知を必要としな くなったということがあげられるかもしれな い。これが、医療界が礎の岩盤を見失い、浮つ いて漂流している原因の一つではないか。

ところで、老人が医療現場の最前線に立つこ とは、やっかいな問題もある。それは、老人に なると頭が固くなることが往々にしてあること である。特に知識偏重型の人間がそうである。 知識は常に古臭くなる。ところが、老人になる ほど記憶力すなわち、知識集積能力が落ちてく る。にもかかわらず、知識偏重型の人間は古臭 くて凝り固まった知識にしがみつき、なおか つ、それを若い人たちに押し付けて反省もない から嫌われる。それに権威や権力がこびりつく と余計に始末におえなくなる。多くの老人がう っとうしがられて周りから引退を期待されるの はこの理由からではないか。そして、引退した とたんに隅に追いやられて抜け殻のようになっ て生きている。

一方、己の知識の限界に気づいている人間は いつまでも古臭くならないだろう。なぜなら、 いつでも自分の古い知識の殻を脱ぎ捨てて新し いものを受け入れる心の用意があるから。そし て、その心はすべてのものの底に流れて決して 失うことのないものを見抜いているから表面的 な知識にしがみついたり惑わされたりはしな い。そんな心の能力は記憶力とは全く別次元の ものであり、老いとともに減退するどころか、 無駄なものがそぎ落とされていく分、いよいよ 光り輝くものではないか。そんな人こそが老練 の医療を体現できるような気がする。そしてそ れが行き詰って迷走している現代医療に光明を もたらし、若い人達にとっても「老いたらあん な医者になりたい」という夢と希望の存在にな るのではないか。そんな老人になりたい。