沖縄県医師会 > 沖縄県医師会の活動 > 医師会報 > 6月号

ハンセン病を正しく理解する週間(6/24〜6/30)に因んで

山内和雄

国立療養所沖縄愛楽園長 山内 和雄

ハンセン病の啓発のため、沖縄県医師会報に 投稿させていただき感謝申し上げます。今回 は、愛楽園設立の経緯ついて報告いたします。

「愛楽園設立までの経緯」

明治40年(1907年)「ライ予防に関する法 律」を受けて、公立療養所の建設が全国5ヶ所 に府県立の連合療養所を作る計画がされまし た。沖縄県は貧乏県であり、またハンセン病患 者は、日本本土に比し3倍の患者がいる濃厚地 でありました。このため、内務省は、沖縄県に 国立の療養所を設置することを計画しました。 沖縄県では、明治42年(1909年)当時の真和 志村天久樋川に療養所を作る計画がされました が、沖縄県議会で、那覇市の将来の発展を阻害 するとの理由で、この建設案は否決されまし た。やむなく、内務省は、沖縄県を第5区九州 療養所(現在の菊池惠楓園)に加入させ、沖縄 のハンセン病患者をそこに収容することにしま した。しかし、この救らい事業は充分に機能せ ず、昭和4年(1929年)内務省は、沖縄県を九 州療養所から分離しました。この19年間に沖縄 県から九州療養所に収容された患者は、わずか 49人でした。

沖縄県は、県内に療養所を建設する計画を立 て、まず、患者の多い北部地帯に建設するた め、昭和4年に名護町喜瀬に候補地を求めたが 反対され、昭和5年名護町宮里と宇茂佐の境に 候補地を選んだが名護町に反対され建設するこ とが出来ませんでした。

(嵐山事件)

県当局は、ひそかに羽地村と今帰仁村の境の 嵐山に土地を購入し、薬草園計画と偽り、療養 所設置計画を立て、昭和7年(1932年)3月起 工しました。この計画が発覚し、羽地村、今帰 仁村、名護町、本部村の4町村に流れる川の分 水嶺にらい療養所を建設することに猛反発しま した。羽地村は、猛烈な反対運動を展開し村政 が麻痺し、学童の登校拒否等の反対運動の結 果、ついに村民39人が検挙され、6人が実刑を 受ける事件が起こりました。それ以降、沖縄県 の療養所建設計画は中絶し、沖縄県のハンセン 病患者は放置されることになり、沖縄の患者 は、根強い偏見と迫害の中で悲惨な生活を送る ことになりました。

日本のハンセン病患者統計によると、沖縄県 の患者は、明治40年人口1万人中15人であった ものが、昭和10年には人口1万人中17人と増加 していました。この様な状況の中、昭和2 年 (1927年)熊本回春病院(私立ハンセン病療養 所)から沖縄の患者にキリスト教の福音伝道に 派遣された、自らもハンセン病患者であった青 木惠哉は、誰からも文句を言われない土地を屋 我地大堂原に9,900平方メートル購入することに なりました。昭和10年(1935年)12月青木惠哉 は、各地で偏見、迫害を受けていた13人の患者 とともに購入した土地に上陸し生活を始めまし た。この土地は、現在の沖縄愛楽園納骨堂周辺 です。その後、青木達の土地に隣接して愛楽園 創設の橋頭堡となった沖縄MTL相談所が、昭和 12年(1937年)5月建設され、青木ら40人の患 者が収容されました。その後、これらの土地が 国に寄付され108,000平方メートルの土地に県立 の療養所が建設され、昭和13年11月10日沖縄県 立国頭愛楽園が開園されました。以上のような 経緯があり、沖縄愛楽園の入所者の中には、患 者が作った療養所との認識があります。青木惠 哉、愛楽園設立の功労者として納骨堂の近くに 顕彰碑と胸像が建てられています。