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還暦前の一大決心

渡邊正俊

南部徳洲会病院 渡邊 正俊

「もうすぐ還暦」といわれても(確かにそう ですが)絵空事のように思えます。私の若いこ ろの「還暦」に対するイメージが「年寄」「仕事 から手を引いてあの世へ行く準備をする」など、 とてもひどいものでした。しかしあと何か月か すると自分もその「還暦」とやらになってしま うのです。今考えると本当にアッという間でし たし、よくぞここまで生きたものだと思います。 そしてここまで生きてきても思いのほか元気で あると感じています。引退どころか還暦数年前 に人生でおそらくは最大の決心をし、実行しま した。故郷福島から沖縄への移住です。平成22 年8 月の事でした。理由はいろいろあるのです が一番は沖縄が、沖縄の自然が大好きだという 事。他の多くの移住者と同じようにダイビング を趣味に持ち、沖縄の海にあこがれ、移住前に 30 回程通いつめていました。ですからこの土 地の食べ物・生活について、ある程度の知識は もっているつもりでした。しかし旅行者である 事と住人である事の違いまでは認識していませ んでした。移住には正の部分と負の部分が存在 します。そして往々にして人は正の部分にしか 目がいかず、過大に期待しすぎて挫折し、実際 1 年以内に半数の人が内地に帰っていくそうで す。しかし幸いにして家内ともども正・負両面 を受け入れることができて移住してから間もな く3 年4 か月を迎えようとしています。これは ひとえに自分も努力しましたが家族やまわりの 方々の支えによるものだと感謝しております。 うちなーんちゅはとにかく優しいです。これは まさに正の部分だと思いますが、打ち解けるま でに時間がかかりました。打ち解ければ「いち ゃりばちょーでー」ですが、こうなるまでには たとえば自治会に入るなど努力が必要でした。

沖縄移住に関しては10 年以上前から漠然と「憧れ」のようなものを持っていました。それ は定年後暖かい地で悠々自適な生活を送ると いう類のものでした。沖縄移住に関する本を買 い込み、自分なりに文化・食生活・経済事情を 勉強していました。そんな中、「沖縄スタイル」 という雑誌に次のような一文を見つけました。 これは衝撃的で、私が一番影響を受けた一文で したので紹介します。実際に沖縄へ移住した方 の言葉です。

『新たな人生のスタートを切るには心身とも に健康なうちに。定年も迎えた60 歳からでは遅 すぎる。島に住むからにはその一員として社会 (地域)貢献をすべき。老後を全うするために移 住するのでは無い。50 歳代のうちにすべき。』

この一文を読んで気が付きました。自分の移 住の目的は地域貢献を含めて自分の人生を豊か するためであって、生活そのものを沖縄という に地に委ねるものでは無いと。そして「人生に は何があるかわからない。いつ自分の人生が終 わってしまうかわからない。とにかく急ごう」と。

私の人生には(子供のころはさておいて)2 度危機がありました。

1 度目は47 歳の時です。検診エコーで胆嚢 ポリープがみつかっていました。そして年に2 回ほど、エコーでチェックしていました。あ る日いつものようにその「育ち具合」を観察し ていたところ、内科の先生に「あれっ?肝臓に cyst がありますよ」と指摘を受けました。しば らくはそのままにしておりましたが、ある日思 い立ってCT を施行したところ、cyst では無く 明らかにtumor で、MRI を受けてみても同じ 結果でした。肝内胆管癌と診断され(最初に診 断したのは自分なのですが)自分の出身医局で 手術を受けました。主治医は同級生。術前のム ンテラで「リンパ節に転移していたらせいぜい もって2 年だな」と宣告を受けていました。さ すがにこの言葉は効きました。手術の前の晩覚 悟を決めて、術後回復したらすぐに余命6 か 月の診断書を書いて貰って生命保険を受け取っ て、余生を南の島でのんびりゆったり過ごそう と思ったものでした。ところが手術してみたと ころ、癌ではなく膿瘍でした。まー自分が最初に癌と診断したのでしょうがなかったのです が、損したような得したような不思議な気分で した。この頃から沖縄移住を模索し始めました。

2 度目は沖縄に来て約半年後、平成23 年3 月11 日に起こった東日本大震災です。翌12 日に出身医局の同門会が開催される予定でした ので、前日11 日に福島に行きました。家につ いて5 分後、荷物をおいて「さあ何からやろ うか?」と思った瞬間に、グラグラっときまし た。地震は1 分くらいで収まるだろうと考え ていて、たいして気にも留めないでいたのです が、1 分過ぎあたりから揺れがさらにひどくな り、食器棚や本棚の扉が勢いよく開き、食器が ガチャガチャと落ちて砕けていきました。そう しているうちに家の壁に亀裂が入り、「メリメ リ」という音が聞こえるようになりました。(も しかしたらこの家がつぶれるかも知れない。つ ぶれて下敷きになったらやっぱり生きてはいれ ないだろうなぁ。人生の終わりなんて案外あっ けないものなのかも知れない)などと考えまし たが、まあできることはやろうと考え直し、窓 を開けて逃げる準備をし、ただ事ではないこの 地震の後には通信が混乱して電話は繋がらなく なるだろうとも考え、地震の最中に家内に電話 をしました。

「今地震なんだよ。それもすごい揺れ」

「それで?」

「ものすごい揺れで食器は殆ど床に落ちて割 れているし、壁に亀裂が入っているんだよ。こ の家つぶれるかもしれない。」

「それで無事なの?」

「まあ何とか無事だから電話しているの」

無理もありませんがここまで話しても家内は ピンときてはいないようでした。地震が収まり

「とにかく無事だから心配しないように」

「しばらく電話は使えないだろうし、当分沖縄 には戻れないかもしれない」事を告げて、電話 を切りました。案の定その後電話は2 日以上全 く繋がらなくなりました。断水になりましたが 停電にはならず、津波が押し寄せて多数の犠牲 者が出たこと、原発がメルトダウンを起こしそ うな事(実際には起こしていました)、水素爆発を起こした事などをテレビで見ていました。

まるでこの世の出来事ではないようなこと を、繰り返し繰り返し放送していました。いっ たいこの国はどうなってしまうのだろう…。そ う思っていました。

震災から4 日後何とか沖縄に戻りました。3 日間ほとんど寝ていなかったこともあり、帰沖 翌日は休みを貰いました。朝、目が覚めると子 供たちの遊ぶ声が聞こえてきました。近くの公 園に保育園児たちが遊びに来ていたようでし た。その光景を見ながら

「沖縄って何て平穏なんだろう」と思っていました。

最近「いつやるの?」「今でしょう!」とい う言葉をよく耳にします。人生においても全く その通りだと思います。肝切除術後あたりから、

「やりたい事はやりたいときにすぐにやる!」 というのが自分のモットーになったようで、還 暦前の一大決心となり、移住を決行し現在に至 っています。

移住してきて本当に良かったのか?と問われたら

「それは死ぬ間際までわからない」

と答えるしかないと思っています。いいこと も不満もそれなりにはあります。

ただ福島では自分が困った時にすぐに助けて もらえる同級生や同門の先生方がたくさんいま した。今考えると、かなり恵まれた環境の中で 仕事や生活をしていたようにも思われます。

一方井の中の蛙であった事も否めません。恵 まれた環境から脱して、自分はそれでも通用す るのか?まだ答えは出ていないと思いますが、 移住してしまった以上はこの地で頑張るしかあ りませんし、何より家から車で2 〜 3 分で綺麗 な海が見えるこの環境が、自分を奮い立たせて くれていると感じています。