北部地区医師会病院副院長
NPO MESH サポート理事長
小濱 正博
午年を迎えてもう還暦の歳になってしまっ た。自分では未だ人生の途上にて青年のような 気持ちでいたが、身体は正直なもので年々体力 の低下を感じるようになった。思えば医師にな ってから走り続けてきた気がする。大学卒業後 は心臓血管外科の道へ進んだ。といっても心臓 血管外科医で終わるつもりはなく救急現場での 心血管系損傷の処置を覚えるつもりでいたが、 当然のことながら医局の教育方針に従い手抜き は許されるはずもなく研修医時代は自宅に帰る のは盆と正月という今の研修医諸君にとっては 考えられない時代であった。関西労災病院から 東京の心臓血管研究所付属病院外科に移り苦労 は多かったが、優れた恩師や先輩に教えていた だき幸せな修行時代だった。そんな忙しい日々 を送っていた頃、父が病に倒れた。週末に大阪に戻り父親に付き添い日曜の最終で東京へ戻る 日々が続いた。父は生まれ故郷の沖縄へ帰るこ とを望んだが叶わなかった。父の他界後、私は 再び忙しい日々に戻った。翌年の正月に緊急手 術があり、明け方に終わり一息つこうと病院の 屋上に出た。東京では珍しく澄んだ正月の空に 遠く富士山が見えていた。何故だか父親の顔が 浮かび、私に語りかけてきた。今のままでいい のか、正博と。見透かされたような父の言葉だ った。当時、私は医師としてどう生きるべきか を考えていた。大阪、東京で最先端の医療技術 を学び医師としては幸せな環境にいた。しかし、 都市部の医療を知っていても地域医療の実態を 知らなければ医師として片手落ちではないだろ うかと悩んだ。沖縄に行こうと決意した。
北部の伊江島という離島が医師を募集してい ると聞き、2 年間のつもりで赴任した。その時 は2 年で心臓外科医に戻るつもりだった。しか し、離島勤務は医療過疎地域が抱える多くの問 題を私に投げかけた。都会にいては決して経験 できないいろんな事に巻き込まれることになっ た。何よりも問題であったのは急患の搬送手段 だった。夜間には漁船を改造した搬送船で荒波 の中を船頭、看護師と伴に本島へ搬送した。あ る時、米軍基地内の耕作地で交通事故が起きた。 道路からの転落だった。運転手は窓から半身投 げ出され胸部を挟まれた形で受傷、心肺停止状 態で米軍兵士がCPR をしながら診療所へ連れ てきた。初期治療を行い、本島病院に搬送しよ うとしたとき基地責任者が嘉手納のレスキュー 隊のヘリを要請してくれた。要請後15 分でヘ リは到着し患者を海軍病院へ搬送した。ヘリの 後部は開けられたままで処置をしながらの搬送 だったが、眼下に家々の明かりが美しく煌めい ていたのを覚えている。この搬送で私は航空機 医療の必要性を痛感させられた。要請後15 分 で到着し15 分で海軍病院ヘリポートに着陸し た。この迅速性は当時の私には考えられない速 さであった。その後海外の航空機医療の状況を 調べてみると、この領域で日本がいかに遅れて いるかがわかった。赴任後2 年が過ぎ東京へ戻 ることを考え出した時、未だ帰れないと思った。 離島には解決すべき問題が残っており、沖縄の ためにやらなくてはいけないことがわかりだし た。それから2 年伊江島の医療環境を整えた後 に私は南オーストラリア州のロイヤルアデレー ド大学病院救急部・高気圧治療部に勤務するこ とになった。そこにはJohn A Williamson 教授 という海洋咬刺症、減圧症治療を含む高気圧酸 素治療と航空機医療の世界で認められた専門家 がおり、彼の下で働くことになった。沖縄に必 要な医療でありながら沖縄には専門家がいなか ったからである。それからの2 年は実り多い 臨床経験をつむことができた。帰国後は沖縄の 救急医療の中で必要でありながらなおざりにさ れてきた海洋医療の普及と民間救急ヘリ事業を 立ち上げて救急医療に尽力してきたつもりであ る。これからも息が続くかぎり自分の納得する 道を走り続けるだろう。愛する沖縄のために。