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還暦までを顧みて、今後に臨む

金城幸雄

南部徳洲会 整形外科 金城 幸雄

還暦と言われても特別な思いは湧いてきませ ん。突然に還暦になったのではなく、生まれて から、連続した日々の積み重ねだからでしょう。

思い起こせば、生まれてから小学校までは両 親、兄弟の愛情に包まれ、自由奔放に遊んでい ました。中学校では体が小さいコンプレックス のため、男は強くなくてはいけないと思い、「柔 能く剛を制す」柔道に打ち込みました。高校に 入ってからは、柔道は体が大きい方が有利だと 気がつき、柔道にも身が入らなくなりました。 そうすると迷いが生じ、勉強にも集中できなく なりました。昭和50 年、二浪の末、国費制度 で北海道大学に入学しました。初めての県外の 生活のため、カルチャーショックになり、多く の時間を雀荘と焼鳥屋で過ごしました。泥酔し た際に、下宿へ運んでくれた同級生の照喜名重順先生(てるきな内科胃腸科医院)、先輩の松 元悟先生(ハートライフ病院)ありがとうござ いました。おかげで冬の札幌で凍死せずにすみました。

どうにか医師になり、琉球大学整形外科へ2 年前に入局していた仲宗根栄作先生(仲宗根整 形外科)に勧められ、昭和58 年に入局しました。 初代 茨木邦夫教授に厳しくも暖かく指導いた だきました。1 年間の大学勤務の後、県立那覇 病院、大浜第一病院、県立八重山病院と4 年間 ローテーションしました。早く一人前の整形外 科医になりたい気持ちでしたが、長年の酒癖の ために多くの方にご迷惑をおかけしました。こ のままでは破滅すると思い、身を固める決心を しました。八重山への転勤前に結婚し、子供に も恵まれました。昭和62 年、大学に戻り、脊 椎外科を目指しました。高良宏明先生(元琉球 大学保健管理センター所長)はじめ、多くの先 輩方に指導いただきました。整形外科医、脊椎 外科医として一人前になること。仕事、学会を こなすこと。子供と遊ぶこと。酒を飲むことな ど、やるべきことがいっぱいあり、余裕のない 生活でした。自分のことを考える時間が少ない 状態でした。

脊椎外科をある程度、執刀できるようになり、 平成9 年に徳洲会病院に入職しました。50 才に なると、子供も親離れし、叱咤激励してくれる 上司もいなくなり、自分のことを考える時間が 多くなりましたが、御多分に漏れず、高血圧、 高脂血症とメタボになりました。食事療法とジ ョギングを開始。1 年で10kg 減量し、メタボを 克服しました。メタボを克服したことで行動力 に自信がつきました。ジョギングをすることで 爽快感と思考する時間を得ることができました。

その頃、テレビドラマで「さとうきびの唄」 を見ました。明石家さんま演じる日本兵が戦地 で逃げているアメリカ兵に出くわし銃を突きつ けますが、躊躇します。その時、「俺は人を殺 すために生まれてきたんやない」と叫び、引き 金を引くことはできませんでした。好きなこと ができる今の私は幸せです。私にとって幸せと は何かと考えると自分が関わることで人に幸せを感じてもらうことです。今の私にとっては、 脊椎外科で患者さんとそのご家族に幸せを感じ てもらうことです。楽しみは自分の時間を好き なように過ごすことです。

毎年、経験したことがない未知の年齢を重ね ていくわけですが、肉体的、精神的変化を享受 しながら、思考、行動していく楽しみもありま す。その時々に自分にとって幸せと感ずる行動 をとりたいと思います。宮里藍はI am here と 念じて、プレーしているそうです。私もI am here と思いながら、これからも「今を生きる」 を真摯に実践したいと思います。