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アラカン(アラウンド還暦)になって最近よく思うこと・・・

喜屋武幸男

那覇市立病院 喜屋武 幸男

アラフォーならぬアラカンだとのんきに軽口 叩いていたのに、いよいよ還暦を迎えることに なると、不思議な感覚に襲われる。気が付けば 60 年近くも生きてきたのかとびっくりしたと いうのが正直なところだ。振り返ってみても人 並みに山あり谷ありの中を乗り越えてきたはず なのに意外と平穏・平凡だったような感じもし て、我ながら鈍感なのかと思ったりもする。

医学部への進路を決めたのは高校3 年の夏 であった。人の喜ぶ瞬間に共感して自分も喜 べる そのような仕事をしたいと思ったら単 純に医師という職業が頭に浮かんだ。進路の 決断が遅かった分、入学までの時間を要した。 当然父母にも心労を掛けることになり、特に すでに年老いていた父には申し訳ない気持ち になった。実は私は養子である。私の生後2か月頃、実の母が急逝したため、子だくさん だった実父はその叔父夫婦へ乳児の私を託す ることになった。私からすると祖父の弟が私 の父(養父)となったのだが、その父は当時 59 歳で今の私と同じ年齢である。つまり還暦 を迎える頃から、いわば孫のような赤ん坊を 我が子として育てることになったわけである。 ちなみに母(養母)は当時30 代なかばであり、 10 歳の一人息子がいた。私は新しい両親と兄 に囲まれて何の違和感もなく、実の家族だと 信じ切って育った。私が自分の生い立ちに気 付いたのは10 代前半の頃であったが、多少の 動揺はあったものの、その後も大いに甘えさ せてもらった。父は高齢であったため、私の 高校生の頃からの家計はほぼ兄が支えてくれ た。大学浪人、そして大学への進学がかなっ たのもすべて兄のお蔭である。医学部に入っ た当初は目の前で親が倒れても助けられる医 者になろうと考えていたが、その後、父母の 最後はできるだけ苦痛がないように、そして 自ら看取るようにしたいと考えるようになっ ていた。

その父は私が研修医の時に他界したのだが、 自ら看取ってあげることができなかったため、 申し訳ない気持ちが残ってしまった。そして平 成25 年1 月に母が他界した。実は何年も前か らその時が来るのを覚悟していたつもりではあ ったが、その時が突然、あっけなく訪れたため、 若干うろたえた。決して苦しめず、家族で見守 りながら可能な限り静かに看取ってあげたいと 以前から考えていたので、できるだけそのよう に努めた。まだまだ十分な恩返しもできず、や ってあげたいこともいろいろあったが、それも 叶わなくなり、枕元で感謝の気持ちを伝えるこ とが精いっぱいだった。実はその母の死の前後 数か月の間に義父、そして実の父を相次いで自 ら看取ることになった。いずれも高齢であり、 また大病も患っていたが、幸いそれなりに人生 を楽しんでいただけたのではないかと思う。そ してその最後のひと時は、苦痛を伴う処置はで きるだけ控えるように努めた。

医師としての十分な知識と技術をもって妥当な医療を行い、人の病を癒し、人を生かし、活 かすのが医師の使命であることは言うまでもな い。が、一方で看取りも大切な使命だと思うよ うになったのはいつの頃からだろうか。研修医 へよく話すことだが、我々の仕事は人を良く生 かし、良く逝かすことだと思う。我々の治療に より、生きるべき人はその後の人生も幸せで あるように生かしてさしあげたいし、そうでな い場合は見送る人もそして旅立つ人も感謝と満 足感をもって人生を閉じられるように最後のひ と時を過ごせるようにしてあげたい。口で言う のは簡単だが、実際なかなか思うようにはいか ないことが多い。この頃、私の周りにも旅立つ 人が多くなり、ついついそのようなことを考え る機会が多くなった。私の二人の子供たちもも うすぐ医師としての道を歩み始めることになる が、さてどのような医師人生を過ごすのか、折々 に酒でも飲みながら語り合いたいものだ。