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年男が想い出す侭に

大城隆

嶺井第一病院 大城 隆

八幡平のズリ捨て場で何かを舐め取る月の輪 熊に目測30m まで接近した(浦添市医師会報、 昨夏号表紙写真)。お互いに認識しつつ距離を 保ち、急な動きをしなければ襲われない事は 経験済だ。撮った数葉を参考に露出を変更して いると、私の直ぐ後ろで熊避けの鈴の音と共に 110 番、110 番、熊に襲われる、と騒ぎが始ま った。車から出るなと言ったのに。携帯は通じ ないのに。然も撮影が佳境に入ろうという時にだ。オウンゴールを喰らったキーパー気分と焦 点距離200 oの積りが105 oになっていた歯 痒さとが血圧を安定させる訳もなく、降圧剤を 服み、深呼吸を繰り返した。襲われたのは私で はなく熊なのに。

30m という距離はイザという時に私が車に 飛び込む手順と時間とを考慮したものであった が、棒立ちに固まって口だけが動く彼女が居て は無きに等しく、嘗て診た熊の爪による出会頭 の顔面裂傷の酷さを思い出した。山では殆どの 場合熊が先に気付いて人を避けるが、運が悪け れば圧倒的戦力差の下に勝目の無い1 対1 の遭 遇戦となる。殆どの人は山菜や茸取り、渓流釣 りに音源を携行する。

昔、旧友が単独で熊猟をする人を紹介して呉 れたのが熊との付き合いの契機となった。彼は 営林署の現場の職員で体が空く冬場には熊を追 っていた。寡黙ではあるが問いには誠実に答え て呉れ、山の動植物や急な増水を来す沢の見分 け方等多くの事を学んだ。

未明の林道の水溜りはカリカリに凍り付いて 中は空洞と化し、うっかり是を踏むと乾いた金 属音が辺りに響き渡って熊を警戒させる。沢を 登ると片側の斜面は途中からブナ林を成し、其 の幹には熊がドングリを食べて降りる際に付け た爪痕が残る。反対側の斜面には2m を超す熊 笹が茂り、其の中を熊が姿を見せずにザワザワ と走り去った。彼は耳で其の行き先に見当を付 け、先回りをして待ち伏せると言う。沢を下り て車で10 q程走ったが直線距離では先程の場 所とは1 qと離れていないと言う。早池峰薄雪 草で知られる早池峰山の東側の地形を広範囲に 亘って熟知する彼ならではの読みであった。其 処から30 分程静かに遡った所で彼は銃を背に 橈垂れる藪に逆らって目前の枝沢を足早に登っ て行った。私には上流の2 つ目の枝沢で待てと いう指示が残された。熊との出会いへの期待感 は木霊する1 発の銃声によって打ち砕かれた。 私の前に滑り落ちて来た熊に透かさず1 発撃 ち込んだのは仕留めた筈の熊に襲われた事例を 聞かされていたからだ。彼は自分が撃たなけれ ば熊は私の前に現れた筈だと笑ったが、自分で獲れる時には確実に獲るという哲学が垣間見え た。遊びではなく生活なのである。熊の胆や毛 皮は現金収入となり、肉は初老の夫妻の蛋白源 であった。私が得た物は非日常的な充足感であ り、是は10 数年断続的に続いた。アイオン沢 に架かる手製の橋には弛んだ針金が欄干と言う より目印として張られ、是を渡ると竹垣の傍で 柴犬が尾を振り、囲炉裏には熊鍋がグツグツと 湯気を立てていた。

細切れにされた脂身の出汁が白菜、牛蒡、里 芋、茸類、餅に染み込み、其の旨さが胃袋を満 たして噴門にまで迫った。6、7 年前、秋田の 温泉宿で供された熊鍋に目を細めたが、2 口、 3 口で箸を置いた。囲炉裏の火がパチパチと爆 ぜ乍ら冷えて疲れ切った体を前から焦がし、虎 落笛の果てが隙間風となって背中を凍らせると いう温度差と空腹感と寡黙で誠実な初老の夫妻 という総ての調味料が欠けていた。

岩手は馬産地だが物言いたげな其の円らな瞳 に魅了されて以来馬料理は喉を通らなくなって しまった。 ドーントハレ