沖縄県医師会 > 沖縄県医師会の活動 > 医師会報 > 1月号

医師になって50余年

前田憲信

前田胃腸科医院 前田 憲信

昭和34 年、武蔵野赤十字病院でインターン。 35 年医師になり、同病院外科に採用され最初 の院外派遣は、東京都が奥秩父の「日の出山」 に開設する小中学生徒の林間学校への救護班 (看護師1 人、看護学生2 人)。「日の出山」ま では登山電車で登り、2 週間の救護班の任務、 昼間はキャンプ地巡り、夜は広場でのキャンプ ファイヤーで楽しい日々を送った。その間に、 男子中学生が急性虫垂炎を発症し、日赤病院へ 送った。穿孔寸前の虫垂炎であったとのこと。 もう1 件は夜の7 時か8 時頃であったと思う。 宿泊所より1km 程離れた山奥の集落で高齢の ご婦人が腹痛で苦しんでいると、往診依頼。暗 い山道、2 人並んでやっと通れる細道、集落か らは4 人の青年が焚松を持って迎えに来て、救 護班の前後を守って先導された。患者さん宅に 着き、診察、腹部は膨隆し、苦しそうであった。4、 5 日便秘していたが昼食までは摂れ、夕方にな って苦しくなってきた。一般状態は良好で、直 腸指診で直腸に野球ボール大の糞塊があり、摘便し、浣腸するとみるみるうちに元気になった。 看護学生は行き帰りは私の手をしっかり握り、 生きた心地はなかった、とのことであったが、 宿舎に着くと小躍りしていた。

2 回目の派遣は昭和36 年の元旦の前後7 日間、 北朝鮮への帰還者の収容所へ。新潟市郊外の2 千人の収容者の健康管理、長岡日赤病院から派遣 されて来たベテランの看護師と2 人。麻疹が流 行っていて休息する暇もない日もあった。大きな 事故もなく任務を終了。上越地方は20 年振りの 大雪で線路の両脇は汽車の高さより高く雪が積 もっていて景色を眺めることはできなかった。

帰沖して1 年間は外科医院で多くの胃腸科疾 患の手術を体験させていただいた。インターン の同期生で東京大学内科、第8 研(胃カメラ研 究室)に入室した医師が居て、月に1 〜 2 回胃 カメラフィルムを持参し、見せてくれた。それ が切っ掛けで胃カメラ検査に興味を持つように なった。

昭和38 年5 月、胃カメラ同好会の結成の呼 び掛けがあり、6 月に胃カメラ同好会が結成さ れ入会した。最初の頃は不定期で月に1 回症例 を持ちよって勉強会が催されていた。

昭和39 年から年に数回セミナーが開催され るようになり、日本消化器内視鏡学会から錚々 たる、特に若手の講師をお招きして、実技及び 読影指導を受けるようになった。

昭和41 年にVa 型胃カメラが東京医大で開 発され全国的に普及した。沖縄胃カメラ同好会 では16 器を一括購入した。当時胃カメラを入 手するには東京大学第8 研で2 週間の講習を受 けることが条件になっていたが、一括購入した ことによって、Va 型胃カメラ開発に関った斉 藤利彦先生とオリンパスから広井技師が派遣さ れ、3 週間、入手した医療機関を巡って実技と 取扱い方を指導して下さった。

昭和51 年7 月に会長に指名され、以後は毎 月第4 水曜日に症例検討会を開催するように なった。昭和53 年に15 周年記念誌を発行す ることになり、以後5 周年毎に記念事業とし て県内の消化器疾患の疫学的調査と記念誌を 発行することになり。平成25 年8 月に50 周年を迎えることができた。興味のある方はお読み下さい。

平成23 年八十路に入り、老後は何を楽しみ に生きて行くかと不安になっていたが、誕生日 の翌月、日本医事新報8 月26 日号に「漢方は 面白い」特集記事が20 頁程あり、その記事を 繰り返し読んでいるうちに興味がわき「本当に 明日から使える漢方薬」新見正則著者を20 回 程通読(1 年掛りで)して30 方剤を覚え、3 ヶ年掛りで凡そ60 方を理解するようになった。 今後はそれらの漢方薬治療を如何にうまく使え るようになれるかを楽しみに、残された余生を 大事に努めていきたいと思っている。

この投稿の機会を下さって感謝しています。