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チェンマイの思い出

比嘉太

琉球大学医学部附属病院 第一内科 比嘉 太

随筆とは縁遠い無機質な生活を繰り返してい る私が、「緑陰随筆」のテーマを悩んでいるうち に、ふわっと心に浮かんできたのはタイ王国立 チェンマイ大学病院にて熱帯医学研修を受けた 時のこと。既に20 年前のことになるが、チェン マイでの3 カ月は懐かしさとともに、タイ寺院 の黄金の輝きのように強い印象を残している。

大山健康財団の支援のもと、タイ北部の都 市にあるチェンマイ大学病院で熱帯医学研修 を受けるプログラムである。私は斎藤厚先生 と金城福則先生についてチェンマイ大学医学 部を訪問した。当時のPhornphutkul 医学部長、 Ratdilikpanich 副医学部長、Klumklin 内科部長 らに歓待され、楽しい数日を過ごした。会食で は、タイ北部で食されるsticky rice(いわゆる もち米)が供された。通常のタイ米はぱさつ いて日本人の食感には合わないが、このsticky rice を炊いたものはまさしく御飯であり、美味 であった。

上司が帰国した後は附属病院の隣にあるゲス トハウスに滞在し、徒歩5 分で病院に通った。 毎日、デング出血熱やマラリアの患者さんが入 院してきて熱帯病研修には事欠かなかったが、 最もインパクトがあったのは当時タイで急激 な増加をしていたエイズの患者さんたちであっ た。ほとんどが合併症である日和見感染症を発 症して入院してきた。ニューモシスチス肺炎が 多かったのは日本と同様であったが、クリプト コックスやタイ北部の風土病的真菌感染症であ るペニシリウム・マルネフィアイ感染症を発症 した患者さんを多数診させて頂いた。

外来診療ではペニシリウム感染症の二次予防 における抗真菌薬イトラコナゾールの有効性を 検証する臨床治験が実施されており、患者さん たちはもらった薬を大事そうに持ち帰っていたのが印象的だった。一方で、非HIV 感染者も 稀にペニシリウムによるリンパ節炎を起こす ことがあった。臨床試験の対象外であり、若い 女性患者は自費では高価なイトラコナゾールを 購入することができず、薬局から戻ってくるな りぼろぼろと泣き出してしまった。安価な代替 薬を処方されたようだが、皆保険の日本との異 なる状況に少なからずショックを受けた。なん というかまさしくヒューマンな外来診療で行わ れていた臨床試験の成果が後年NEJM(339: 1739 〜 1743,1998)に掲載されたのを読んで 不思議な感慨を感じた。帰国時に分与を受けた ペニシリウム・マルネフィアイの貴重な菌株 は、その後、私の同僚の久手堅先生によって 多くの優れた研究成果を挙げられて、現在は American Type Culture Collection に登録保存 されている(ATCC No.201013)。

多くのタイ国民は敬虔な仏教徒である。朝早 起きして散歩をするとオレンジ色の袈裟をまと ったお坊さんたちが托鉢をなされているのに出 会う。タイでは男性は一生に一度、あるいは母 親のためにもう一度、一定期間仏門に入るらし い。年に一度、医学生たちはチェンマイ近郊 のDoi Suthep シュテープ山の頂上まで皆で数 時間かけて歩いて登り、頂上の寺院Wat Phra That Doi Suthep に参拝する。ちょうど滞在期 間に参拝が行われ、私も同行させてもらった。 心地よい疲労感の中で見上げたこの寺院の黄金 はひときわ美しく、青空に映えてまばゆいばか りであった。

週末に映画館に行くのが自らできる楽しみで あったが、映画の始まる際にはタイ国王の御姿 が映し出され、その瞬間に老若男女全ての観客 が起立して敬意を表する。私も周りにならって 礼をするのが常になった。国王が国民の尊敬と 親しみを一身に集めていることに強い印象を受 けた。昨今のタイでの政治の混乱が私には合点 がいかないのだが、彼の国のありようも変わっ てきているのだろうか。

昨年、流行に遅れてFacebook に登録した。 すると、20 年前にチェンマイで出会った当時 医学生のYaicharoen 君から連絡が入った。現在はPhysiology の講座にFaculty として勤務 しているとの事である。チェンマイを思い出し たのは彼からの暖かいメッセージのせいかもし れない。私が年を取ったせいではないだろう、 たぶん。チェンマイの街の石灰岩からなる白い 砂利道と道端にバナナが自生している風景は子 供の頃の沖縄のイメージそのものであり、懐か しさを感じたことも覚えている。あれからチェ ンマイ大学病院もチェンマイの街並みも大きく 変貌したものと思う。機会を見つけて再訪した いと願っている。