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フリードマン先生の Congratulations

城間 勲

ちばなクリニック内科
城間 勲

フリードマン先生は、いかにもゲルマン民族 の末裔といった感じの人だった。身長はそれほ どでもないが、がっちりした体格。白い肌に少 し赤みを帯びた顔。頭髪は、やや心細くなって はいるが、往年のブラッシー(知っている人は、 知っている)を思わせるような見事な銀髪であ る。年の頃は40 歳前後だっただろうか。いつ も真新しい白衣を着ていた。

昭和48 年の事である。

先生は県立中部病院の研修医の指導のため に、ハワイ大学から短期間派遣されてくる指導 医の一人だった。専門は消化器病学である。

県立中部病院はその頃、沖縄で唯一研修医 を採用している病院だった。その外壁の色か ら、周辺の人たちはピンクホスピタルと呼ん でいた。

ぼくは、内科の1 年目のレジデントだった。

当時の沖縄は、本土復帰後の医療の混乱期で あった。中部病院には沖縄中から(那覇からも)、 ひっきりなしに重症の急患が運ばれてきた。

ある人がまるで野戦病院のようだと表現して いたが、まさにその通りだった(実際の戦場を ぼくは知らないが)。症状の軽い患者は後回しに され、重症の患者から診ていく。それでも救急 室の診察待ちのカルテはいつも診察台に山積みで、なかなか少なくならなかった。夕方受診し た小児の発熱患者が、翌朝まで救急室の外の廊 下で待っているのを見たことがある。若い母親 は、文句も言わずに子どもを抱いて立っていた。

救急室はいつも患者でごった返していた。ス トレッチャーで横になっている患者が観察室に 入りきれず廊下にれていた。

病棟では重症の患者がよく亡くなっていった。

ぼくは(ぼくだけではないが)3 日か4 日に一 度の当直を繰り返しながら、心身ともに疲労困 憊していた。いくら頑張っても患者は亡くなっ ていく。自分には、医師としての能力がないの ではないか。このまま医師を続けていけるのか。

当直の日には、ほぼ間違いなく重症患者が入 院してきた。レジデントは当直の時に入院させ た患者を、当直明けの朝に指導医と一緒に回診 するのが決まりだった。

それはいつもと変わりない当直の日の事だっ た。深夜に肝硬変による食道静脈瘤破裂の患者 が入院してきた。吐血を繰り返す患者に手を焼 きながら、S-B チューブを挿入し、全身状態が やっと落ち着いた頃にはもう夜が明けかけてい た。急いで準備をしてフリードマン先生と二人 で患者のベットサイドに行った。型通りの回診 を終えて、やれやれ、これで医局に戻って温か いコーヒーにありつけると思いながら先生の後 をついて行った。

病室から廊下へ数歩出たところで、突然先生 がぼくの方へ向き直って、穏やかに言った。

「Congratulations」

とっさの事でポカンとしているぼくに、先生 はゆっくりと言葉を続けた。

「あとは、G・O・K だ。・・・・・God only knows だよ」

その瞬間、胸につかえていたものがストンと 落ちた。あぁ、そうなんだ、これで良かったんだ。 神様の意志に委ねるしかない領域がある。一人 で落ち込んでいても仕方がない。現在認められ ている標準的な治療をすれば、残念な結果にな っても許してもらえる。

身体に溜まっていた疲労感がスーッと抜けて いくのを感じた。

フリードマン先生と過ごした時間は、1 時間 に満たなかっただろう。回診もその時一回だけ である。しかし、先生は自信をなくしかけてい た研修医に、かすかだが、はっきりした希望の ようなものを与えてくれた。

「なんとかなるかもしれない」

あの時、確かにぼくはそう思ったのだった。

あれから40 年に近い年月が過ぎた。今でも 何かの拍子に、あの中部病院の薄暗い廊下を思 い出すことがある。向かい合って立っている真 っ白い白衣を着て自信に満ちた指導医と、寝癖 のついた髪の、痩せた研修医の姿を。

そしてその度に、ぼくは胸が少し熱くなる。