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胎盤物語り
-ラエンネックをめぐって-

花城清剛

花城 清剛

胎盤は昔から神秘な臓器と考えられ、草食動 物でさえも本能的にその場で食べてしまうとい う。天敵から守る為に血の臭いを残さないとか、 産後の体力を快復するためといった説は、一応 の説得力はある。

胎盤には、5,000 種以上の成分が含まれてい るとも云われ、その重要な生理機能は、一種の 濾過板とも云える栄養芽細胞を介して、胎児の 発育の為の酸素の供給と栄養素の補給且豊度の 成長因子(増殖因子)により、子宮の中の受精 卵を1 人の人間にまで成長させ、各種ホルモン の分泌、新陳代謝、免疫、解毒作用など多彩な 作用があり、未知の遺伝物質の宝庫とも云われ ている。

ここで、胎盤活用の歴史を見ると、中国や韓 国の医学書等(秀吉の韓国出兵の頃)にも記さ れているように、古代ギリシャでは、医学の父 「ヒポクラテス」に始まり、泰の始皇帝が不老 長寿を求めて使ったといわれ、エジプトの女王 クレオパトラ、楊貴妃も美容に用いたとも伝え られているが、確かな史実はない。1596 年中 国では「紫河車しかしゃ」の名で漢方薬が登上し、やが て韓国でもその記述がみられるようになった。 18 世紀になって、フランス革命の悲運のマリ ーアントワネット王妃も美容に用いたという。

一方、わが国においては1700 年代「紫河車」 を処方した加賀石川県の秘薬「混元丹」が初の 史実として記されており、1930 年代になって、 乳汁の分泌を高めるホルモン製剤がつくられ、 1943 年太平洋戦争末期の食糧難から国家命令 で高度栄養剤が胎盤から作り出され、戦後間も なく発売されている。胎盤の酸加水分解物であ るその「ビタエックス」は、京都大学主導の全 国共同研究の頃と一致する。そして終戦後の医療界に外国の新しい知見がもたらされるなか、 1952 年頃から胎盤埋没療法の研究グループの 活動が活発化し、注射薬の開発も進めてきた。 1956 年、会社を設立して「メルスモン」注射薬 の許可をとり今日に至っている。1970 年代か ら「生命の宝石箱」とも呼ばれて化粧品等の美 容面への応用が広がり、更に健康食品、サプリ メントとして多種多様の賑わいをみせている現 況に繋がる。

さて、胎盤を「一定の低温下」できびしい 環境下におくと、多くの栄養素のほか、人の 細胞や組織の発育と再生修復をつかさどる不思 議な物質が出来、それが体内で「何物か」を通 して種々の疾病を治癒又は再生することに注 目、瘢痕組織や胃潰瘍などの組織療法に着手、 その不思議な物質を「生物原刺激素(biogenic stimulant)」と呼んだのは、旧ソ連 ウクライ ナの学者、フイラートフ(V.P.Filatov1875 〜 1956)であった。角膜の手術に関連した偶然 の発見であったという。

一方、1945 年終戦の頃、満州医科大学病理 学教授から、中共の華北医科大学教授兼医学 研究所長に迎えられていた稗田憲太郎博士(宮 入賞、桂田賞(1938 〜 1940)は、大幸山脈 の山の中で、ソ連SPRANSKY の「神経病理」 に接した。「胎盤を冷蔵すると不思議な物質が 生じ、それを瘢痕収縮で関節運動が制限され ている患者に用いると収縮が緩解し、運動が 出来るようになった」と書いてあった。病的 に増加した結合織にこのような作用を及ぼす なら、体内で病的に増加した結合織に対して はどんな影響を与えるだろうかとの疑問が湧 き、思い切って肝硬変の治療に応用された。 しかし、経験と反復のみで理論展開も出来な いまま帰国され、1953 年、久留米大学病理学 教授に迎えられた。教室を改造して生物、薬 化学研究員を揃え、延べ60 名以上の教室員は、 基礎と臨床研究に従事、実験的肝硬変症の治 療、冷蔵胎盤に出現するという〔不思議な物質〕 の研究に着手した。一方、久留米組織再生研 究所を設立して胎盤製剤の製造にもとりかか られた。1954 年代は胎盤療法が経験医学から理論と実験、「組織再生医学」への始まりであ り、200 余名の研究所会員によって数万例の臨 床報告がなされた。

1958 年の秋、フランスで開かれた国際学会 で「placentafil」と名付けられた胎盤製剤があり、 アメリカでは頑固な下腿潰瘍に用いて顕著な効 果を上げ、ドイツでも胎盤粉末を動脈硬化症に 用い、効果を認めた等の実例報告がみられた。

フイラートフにならった埋没療法は、当初久 留米でも行われていたが、操作が原始的であっ た為、注射の形式に改める研究が併行して行わ れた。今でこそ透明な注射液が提供されている が、生物化学、薬理臨床医学の多彩な面からの 試行錯誤がつづいた。2 〜 5℃で5 日間冷蔵し た胎盤を細挫した単なる懸濁液「胎盤漿」(漿と は中国語に由来)に始まり、アセトン加ホモナ イズ- 脱脂乾燥-pH 調正- ペプシン消化- 塩酸 加加水分解- 脱色と進み、1957 年「ラエンネッ ク・ヒエダ」が完成した。その間、各段階での 動物実験や臨床試験も次々と行われ、実に5 年 間の歳月が流れていた。

ラエンネック(Laennec)とは1800 年代、肝 硬変の病理学を確立し、聴診器を考案したフラ ンスの医師に因んで稗田教授によって命名され た。1958 年、適応症「肝硬変」で製造承認を受け、 1984 年には適応拡大により、「慢性肝疾患にお ける肝機能の改善」の薬効再評価が公示された。 1971 年、教授が「医学思想の貧困」を遺著に急 逝されてから13 年目であった。

こうした一連の胎盤化学に稗田教授を支えて 10 年、1954 年の「冷蔵胎盤の生化学的研究」 を皮切りに、大学にのこされた関連文献は100 以上にのぼると云われ、わが国初の「病理化学 概論」を出版したのは木本英治博士(当時助教授、 のちの福大名誉教授)である。晩年、胎盤の「栄 養芽細胞」trophoblast の本質解明への魅力を持 ちつづけ、「栄養因子」trophic factor を中心と した「胎盤漿ラエンネック」の有効成分を総合 的に見直すべく執筆中、その総括編の完結をみ ないまま2009 年に他界された。84 才であった。 ラエンネックを語るとき、そしてわが国に於け る胎盤病理化学の進展を考えるとき、博士の残された業績を忘れてはならないと思う。

フイラートフ逝って58 年、稗田教授がこの世 を去られて40 年が過ぎた。1984 年、HGF(肝 細胞成長因子)がわが国のNakamura らによって 見出され、1986 年にはLevi‐Montallting&Coben による(ノーベル医学生理学賞)細胞成長(増殖) 因子のいくつかが発見され、個体発生の過程で 器官形成、創傷治癒などに重要な役割を果たし ていることが明らかになった。又、2001 年には「メ タスチン」が発見され、近くは「Hepcidin」など が注目されるなど、胎盤の持つ「謎」は少しず つ解明されようとしている。

ヒト胎盤抽出エキス注射液は「ラエンネック」 と「メルスモン」の2 つであり、半世紀も前に 開発されたものである。現在、それぞれの保険 適用以外に、臨床各面の疾患に効果のあること が確認されている。しかしその多くは経験医学 の域に止まり、現代の病理化学、分子生物学等 の面からみると、その機序の多くは未解明であ ると云う。

2013 年6 月 記