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巳年1965年の出来事について

知念 安紹

琉球大学大学院医学研究科育成医学講座(小児科)  知念 安紹

干支にちなんだ年始挨拶の依頼があり、私の 出生した巳年を振り返る機会を与えて頂き深謝 致します。ちなみに、この巳年の巳の原字につ いてですが、頭と体ができかけた胎児を描いた もので、草木の生長が極限に達して次の生命が 作られはじめる時期とされています。これを「ヘ ビ」と呼ぶのは諸説あるかもしれませんが、よ くわかっていないようです。

私の生まれた巳年の1965年の出来事につい て私の仕事との関連づけも含めてちょっと振 り返って調べてみました。1965年はアメリカ がベトナム戦争に直接介入した年であります。 当時のジョンソン米大統領は米兵 85 人の死傷 を受け、その報復命令として北ベトナム領内 への大規模な爆撃が 1965年に開始され、1973 年の戦争終結まで続きました。また1965 年に は沖縄県で風疹が大流行し、408人の先天性風 疹障害児が出生しました。実はその前年 1963 〜1964 年に米国で風疹が大流行し 2万人の先 天性風疹障害児が出生し、沖縄県はその余波 を受けた形となっています。ベトナム戦争の介 入した年と重なるのも皮肉なことです。当時は 局地的に米軍基地による経済が潤ったのかもし れません。その時はよく理解できませんでした が、私の周囲にも補聴器を装着した子がいまし た。1978年には沖縄県立北城ろう学校、宮古 / 八重山分校が設立され、単一学年140人の生徒 が入学し、19学級開設、その後 1984年に全生 徒が卒業し本校、分校ともに 6 年間終了となり ました。その跡地の北中城村に現在の沖縄県立 沖縄ろう学校が移設しました。盲学校とろう学 校が合併した時期があり、その時期は1943 年 から戦争のため一時閉校を経て、盲・ろう学 校が分離する1959年まででした。1972年本土 復帰して沖縄県立沖縄盲学校へ名称変更とな り1981 年に現在の南風原町へ校舎移転となっ ています。他に1965年の学校関連では、肢体 不自由者を主な対象とした特別支援学校として 県内で最初に開校したのは1965年琉球政府立 鏡が丘養護学校(現:沖縄県立鏡が丘特別支援 学校)で、知的障害者を主な対象としたのが 1965年琉球政府立大平養護学校(現:沖縄県立 大平特別支援学校)です。沖縄県立那覇特別支 援学校は1960年に開園した沖縄整肢療護園の 園内に開校した那覇教育区立神原小学校分教場 (小学部)と那覇教育区立寄宮中学校分教場(中 学部)が始まりで 1965 年には鏡が丘養護学校の 整肢療護園分教場という扱いとなり、1969年 に琉球政府立那覇養護学校として独立していま す。1979年に那覇養護学校泡瀬分校を設立し、 1985年に泡瀬養護学校(現:泡瀬特別支援学校) となり独立しました。

私が小児科として関連している分野が先天異 常・先天代謝異常の多様性のある疾患であり、 支援を必要とする児童の学校の担任や看護師が 来院して話し合うことも多々あり、日頃上記の 学校の先生方に非常にお世話になっておりま す。また病弱の児童生徒の教育では県内 8 つの 病院に訪問学級を設置している沖縄県立森川特 別支援学校(1984 年設立)があり、当院でもお 世話になっております。私は多様な疾患と関わ り合いながら遺伝カウンセリングも行っていま す。遺伝に関わる病気に不安や悩みを抱える方 のための医療で遺伝的差別・誤解がなくなるこ とを望んでいます。当事者からは理解や共感が 得られても、当事者でない人では隔たりを感じ てしまうこともあり、色々と考え込んでしまう 日々もあります。「この社会とどのように共存 するのか模索し、社会もそこから逃避できない のよ。」と言って起業した親もおります。この 多様性は遺伝学的に人類が生存するための必須 の出来事であることを日々説明しながら今年も 色々励んでいきたいと思います。