那覇市立病院小児科 屋良 朝雄
最近、うら若き看護師たちを前にして、年老 いてきたことの負け惜しみで『早く生まれてき て良かったよ』とうそぶいている。確かにいい 時代を生きてきたんだと、しみじみ思う。戦争 は体験していないし、団塊の世代が築き上げた 社会で比較的緩やかに伸び伸びと過ごした世代 である。振り返るとわが青春時代は、輝かしき 日本の高度成長期〜安定成長期の頃で、右肩上 がりの社会経済が当たり前だと思っていたし信 じていた。一生懸命でなくても、どうにかなる んだと少し無邪気に考えていた。もちろん竹島 や尖閣の領土問題はなかったが、『沖縄を返せ』 と県民こぞって叫んでいた時代でもあった。ぼ んやりした不安からの焦燥感、複雑で閉塞感が 強い『現代』とは、隔世の感を禁じ得ない。
コザの中の町で青春時代を過ごした。近所に は映画館が 4 館あり、立て看板を見ながら、銀 幕の世界をいろいろと想像したものである。『太 陽がいっぱい』の美しくナイーブなアランドロ ン、『暴力脱獄』で寂しそうに微笑んだポール ニューマン、『大脱走』でバイクシーンが格好 いいスティーブマックイーン、『何といっても ローマです』と素敵に微笑んだヘップバーン、 『おいらはドラマー』のやんちゃな裕次郎、映画 を見終わった後、知らぬ間にあなたの後ろ姿を まねた高倉健、みんなイカしていた。
ギンギラぎんの中の町飲み屋街では、ラジオ、 テレビ、ジュークボックス、いたるところから 一晩中音楽が流れていた。みんな覚えているだ ろうか?『ダイアナ』、『恋の片道切符』、『かわ いいベイビー』、『夢見るシャンソン人形』、時 代を象徴するように明るく、アップテンポな心 地よい曲に浮かれていた。
あの頃も歌やテレビそしてスポーツの話題が 一番の関心事で、今よりもずっと単純で、みん なが同じ話題を共有していた。スポーツ界では、 眩しいオーラを放っていたミスター長嶋茂雄、 ストライクゾーンの玉ならすべて右翼スタンド に放り込んだ王貞治など語り尽くせない大スタ ー選手たち。大鵬と柏戸、北の富士と玉の海そ して貴ノ花。あの頃大相撲は確かに国技だった。 僕たちもいつも泥だらけだった。
高校時代は深夜放送をよく聞いたものだ。ウ イットに富み博識あるリスナー達の便りには少 なからずカルチャーショックを受け、自分たち がいかに幼くて、無知であるかを痛感させられ た。友人宅で初めて聞いた吉田拓郎の字余りの 唄。『これこそは僕たちの唄だ』と正直思った。 わかりやすい言葉で社会・人生・愛を痛快に語 り、いつも逃げ道を用意してくれた彼の唄声に 共感を覚え、救われた気がしたのだろうか。
10数年前に、高校時代の友人10名で模合い を始めた。普通の飲み会ではつまらないのでテ ーマを決めて、社会問題、人生、各々の得意分 野について語ろうではないか、ゲストに若い輩 も入れたら面白いねと、息巻いた模合いであっ たが、3年を待たずにあえなく沈没。志は高く 素晴らしかったが、何事にも辛抱が足らない世 代であった。
夭折した友人達にも大いに影響を受けてい る。手の届かない多くの偉人達以上に、身近に いた彼らが放った断片的な言葉や時折見せた必 死な生き様がふとした瞬間に蘇ってくる。初恋 の彼女も亡くなったと風の便りで聞いた。何か しら熱くなる。ありふれた言葉ではあるが、彼 らの分まで、粋に有意義に人生を歩んで行きた いと考えている。若者達が、この混沌とした時 代を生き抜く事は決して容易ではない。彼らが 私たちと同じように、良い時代であったと云え るよう、もっとうんちくを傾けなければと自ら を叱咤激励する。もし可能なら『私の想い出作 り』につきあって欲しいと願う、やはり甘えん 坊な『断層の世代』である。