沖縄県医師会 > 沖縄県医師会の活動 > 医師会報 > 1月号

新春干支随筆の依頼を受け困惑しています。

玉城 英征

経塚クリニック  玉城 英征

今年古希を迎えることになるとは、全く自覚 していませんでした。まだ先の事と思っていま したので、随筆の依頼を受け初めて意識する様 になり改めて自分が高齢者になっているという ことを認識せざるをえなくなりました。光陰矢 の如しといいますが、月日の経つのは早いもの ですね。

古希といいますと、大学生時代から数年前ま でお世話になった二人の大学の先輩が古希を目 前にしてあいついで他界されました。

H先輩は文学青年という感じで、又、ロマン チストで、のちに診療の傍ら随筆を定期的に新 聞に投稿され、本も数冊出版されました。

もう一人の U先輩は頑固でユニークで、面倒 見が良く、開業後は私には理解できない研究に 診療の傍ら没頭していました。

今から53 年前大学入学時に初めて二人の先 輩にお会いしました。その頃はまだ沖縄は日本 に復帰しておらず(北緯27度線を境界にして沖 縄と本土を分離)、当時は留学制度(本土の大 学に入学するための)があり、そのお蔭で大学 に入学させてもらいましたが(大学の決定は沖 縄育英会が行っていた)、私はH大学に決まり ましたが、H大学のU先輩が我々H大学に入学 する 3 人(ほかに文学部入学の I さん、工学部 入学のSさん)を沖縄の自宅に招いて下さって、 色々と大学等について話をしてくれました。U 先輩は、大学入学時に H 市の駅迄迎えに来ら れて、すでに私の下宿先まで探しておりました。

当時は内地に行くにはパスポートが必要であ り、種痘等の予防注射が必要でした。交通手段 は鹿児島までは船で(主として那覇丸(1,060 屯)、沖縄丸(1,600 屯)の 2 隻)行き(鹿児島ま で約27時間)そこから蒸気機関車で H市まで約 13時間かかりました。私は船には弱く、特に 船室の臭いが嫌いで船室に居ることができず、 いつも船のデッキで到着まで過ごしていまし た。また、食事も全く受け付けつけませんでし た。やっと到着して船から降りるとしばらくは 地面が揺れる感じがして困りました。

その後、機関車に乗りH市に行くのですが、 行きは始発ですので座席に座れますが、帰りは 夜行列車で始発ではありませんでしたので、座 席に座れないことが多く、13時間も立ちっぱ なしで疲れました。山陽本線はトンネルが多く 汽車から降りると鼻孔部が必ずススで真っ黒に なっていました。

夏休みには数人で一緒に帰ることが多く、夜 行列車に乗り、翌朝鹿児島に着き、朝風呂には いった後に船に乗り沖縄に帰るというパターン でした。ある年、一緒に帰ったM先輩が列車の 名前を書いたプレートを隠し持って朝風呂に入 ってこられたのにはびっくりしました。M先輩 はいざ風呂にはいろうとした時に、パスポート を紛失していたことに気付き、あわててプレー トを持って、先刻降りた列車に探しにいきまし た。幸い終点でしたので、パスポートは列車の 床におちていて、そのとき、プレートは列車に 置いて帰ったようです。

当時は沖縄のことは、内地の人にはあまり 知られていないようで入学時に同級生(医学部 は 40名)に沖縄では英語を話しているのか、と 尋ねられた時には唖然としました。沖縄出身の 学生が集まるコンパ(新入生歓迎など)があり、 その時にお酒を飲んで酔うと、必ずといって いいほど、ゴミ箱(当時のゴミ箱はコンクリー ト製でフタ付きでした)を探して中に入るとい う癖を持ったO先輩がいました。H 先輩作詞で U 先輩作曲の歌(題名は「南帰行」だったか「北 緯 27度線の彼方へ」だったか忘れましたが)を、 よくU 先輩がギターを弾きながら歌っているの を思い出します。はっきりとは思い出せません が、歌詞の一部を書きますと、「我は友と夜行 列車にゆられ、27度線の彼方の南の島へ帰り ゆく、遠く灯をみつめれば、過ぎ日の事を思い 出す…。」だったと思います。すべて約半世紀 前のことで、両先輩を偲びつつ思い出し書いて みました。