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「我が良き医師人生」

与儀 実津夫

那覇市立病院 前院長  与儀 実津夫

平成25年巳年。私がこの世に生を受けて72 年目を迎える年になります。あらためて、我が 帰し方を振り返ってみました。

私は、第二次世界大戦が勃発した昭和16年6 月、出稼ぎ先で見合い結婚をした共に沖縄本部 出身の両親の長男として大阪で生まれました。 しかし父の病死により終戦直後の昭和 20年、4 歳の私と弟二人をつれ、末弟を妊娠した身で親 族の住む本部へ戻らざるを得なかった母の心細 さは大変なものだったでしょう。

その後私が小学 2年生の時、孟母三遷になら い那覇へ転居。日々の生活を営むさえ困難な時 代に、息子たちを稼ぎ手にすべしと身内から迫 られる中で、4人の息子達を大学まではという 母の強い意思に今でも感謝の念を覚えます。

日々の生活を維持して行くために、母は次々 と仕事をこなしそれに伴って転居も20ヵ所以上 に及びました。

私に許された大学進学への道は「国費受験」しか ありませんでした。しかし現役での受験は、活動 性の肺結核が見つかり失格。3年間の在宅療養を経 て国費合格がかない、配置先が京都大学医学部に 決まった時の母の喜ぶ姿は今でも忘れられません。

昭和38年3月、私は「琉球政府発行のパスポ ート」を手に鹿児島航路「沖縄丸」で祖国本土の 地を踏みました。そして一昼夜の列車の旅を経 て、京都駅に降り立った時の嬉しさは何とも言 えませんでした。

私の恩恵に預かった「国費制度」は授業料免除 と生活費を保障する代わりに、卒業後直ちに沖縄 へ帰還し地域医療に従事することを義務づけて いました。しかし卒業の年昭和44年は、全国的 に大学紛争の真っただ中にあり、京大医学部も ストを打ち卒業ボイコットを決議していました。

私は二度と大学へ戻らない事を宣言し、全闘 会議も例外として私の国家試験受験を認めてく れました。昭和44年3月、沖縄に帰えることが 出来、幸いにも「琉球政府立中部病院」の第三 期研修医に採用されました。そして2年間の初 期研修終了後に「琉球政府立那覇病院」外科勤 務を拝命しました。

昭和47年「祖国復帰」を記念して、「琉球大学医 学部附属病院」の前身「琉球大学保健学部附属病院」 が創設されました(後県立那覇病院に移行し跡地 に現沖縄赤十字病院が建つ)。同時期に閉鎖され た「琉球政府立那覇病院」の全職員は大学附属病院 の国家公務員への移動となり、私も保健学部附属 病院外科助手として勤務することになりました。

7年後の昭和55年「那覇市立病院」が開設さ れ、私は39歳で同院外科へ赴任しました。ま だ医療機関が足りない時代に誕生した県内唯一 の市立病院で働けることは大きな喜びでした。 それから実に32年もの年月が過ぎ去り、平成 24年3月、大過なく勤務を終えることができま した。今静かに振りかえってみて、良き医師人 生であったと思わずにいられません。

我々4人兄弟は、母の願いどおり大学に行き それぞれ良き仕事を得て今では孫を持つ年にな りました。そして母は平成 23年12月26日、息 子たち、孫、ひ孫に囲まれて96歳で大往生を とげました。まさに、戦後をたくましく生きた 沖縄女性の一典型であり我々にとって得難く偉 大な母でありました。