浦添総合病院 宮城 敏夫
私は十二支「巳」の生まれ、72 歳になる。“巳・ 蛇” はもっとも苦手の動物である。5 歳の時に 強烈な体験をしたからである。奈良県山辺郡朝 和村字永原(現在の天理市永原町)での体験で ある。
海軍省・軍医であった父は終戦の年の 7 月に 舞鶴海軍病院から朝和村の近畿海軍航空隊へ、 10 月には霧島海軍病院(12 月海軍省は廃止厚 生省へ移管となり国立霧島病院に改称)へ異動 となった。終戦を境に今後の生活の糧をどこで 得るか、福井県若狭和田に残して来た妻と 5 人 の子供のことが気がかりになっていた。そんな とき(昭和 21 年 1 月)、前任地の朝和村の堀 川村長から「私の村は無医村ですから先生に来 てもらえないでしょうか…」の誘いがあり、父 は喜んで申し出を受け入れた。理由を「これと いった財産もなく、子供達の教育のことを思う と沖縄に帰ることもためらわれた」と回想録で 述べている。早や 2 月には永原に居を移し、7 月には私たちを呼び寄せた。
村長の家業は、造り酒屋だったが、戦争の勃 発で廃業されていた。広い屋敷には立派な母屋 と、裏には別邸、米蔵があり、高い天井の酒蔵 には大きな酒樽が並んでいた。村長は私たちの ために米蔵を改造した 6 畳と 8 畳の 2 間と、診 療所を準備してくださった。酒蔵の裏戸を開く とそこは川の土手、川幅は 10m 程で年中水が 涸れることはなかった。川向こうには数キロに 亘り田畑が広がっていた。
そこに移り住んで間もなくのことである。い つもは酒蔵の裏戸は閉まっているのだが、この 日は戸が開けられていた。酒蔵は、敷石の上に 板張りの土壁で、土壁と板の隙間が青大将の通 り道となっていた。当時、私は青大将(方言で クツナ)については全く無知で、蛇がいること すら知らなかったのである。裏に出ようと走っ て向かったのだが、敷石に足を着けようとした その瞬間、何やら長い動くものに気付き、咄嗟 に敷石を外した。「何これ…?」 頭と尻尾は壁 の隙間に隠れ、胴体は膨れ上がっていた。数秒 で隙間の奥へ消えた。青大将を生まれてはじめ て目にした光景であった。夕暮れになって、堀 川のおばちゃんに昼間の酒蔵でのことを話し、 「あれは何」と聞いた。「青大将やクツナて言う んや。この蔵には 2m 程のおっきなクツナが何 匹もおってな、鼠を捕ってくれるんや」、「敏ボ ーが昼間見たクツナは鼠を飲みこんだんやろ」、 「(クツナに)悪いことせえへんかったら、何も しょらへんからな」等と話してくれた。私は「ふ 〜ん、ふ〜ん」としか声がでなかった。5 歳の 私には蛇を寄せ付けない、嫌なイメージが出来 たようだった。
更に苦手のイメージを決定付けた体験があ る。真夜中に目を覚ましたら “ザ〜ザ〜ザ〜” と聞いたことのない音が天井から響いてくる。 音は天井を移動している。数秒間止まって、 また動きだす。何回か繰り返して “キュ” と 音がして天井は静まった。布団に包まって耳 を欹て立てること何分だったか分からいない。 真に怖い思いをした。朝になって隣のおばち ゃんに真夜中のことを聞いたところ「敏ボー、 それは “クツナや。鼠が咬みつかれた音や」 と教えてくれた。
5 歳のときの 2 つの体験が “巳・蛇” の印 象を決定的にした。舌をべろべろ出して、体を くねらせて動く巳は気持ちが悪くなり大嫌い だ。蛇は私の天敵なのだ。