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巳年を迎えて

松岡 政紀

北部病院    松岡 政紀

医師会の皆様、あけましておめでとうござい ます。早いもので私もこの年を迎えたのかと思 いあらためて周囲を見渡すと何となく不安にな ってくる年になりました。

去年の10月は山中伸也教授が2012年ノーベ ル医学・生理学賞を受賞され日本中が喜びに沸 いた記念すべき年でありました。従来の医療と は全く違った医療が行われるであろう革命的な 時代の幕明けだと予感しています。

迎えた新年も良き年でありますよう祈念して います。

私は昭和16年生まれで 73歳の年男でありま す。太平洋戦争開戦時に生まれ、終戦、戦後の 長い貧しい時代ではありましたが、明るく希望 に満ちていました。

私は群馬大学での7年間の研修を終え、昭和 49年4月中部病院に赴任してきました。専門は 泌尿器科ですが、当時より各科が協力しあって 教えあい、助け合う各科の垣根のない中部病院 の職場に大きな魅力を感じながら、学者肌の大 先輩大山朝弘先生の下で豊富な臨床経験を積む ことができました。

特に印象に残っている疾病は、今ではほとん ど見なくなりましたがフィラリア症です。巨大 な乳び陰嚢の患者さんが股を擦って陰のうも股 も皮膚に糜爛ができ痛くて歩けないから手術し て小さくして欲しいと迫る患者や、乳び血尿の 患者さんで尿の中にプリン状のフィブリン塊が あり、排尿時フィブリン塊が尿道に詰まり尿閉 となっていました。

大きな乳び陰嚢を初めて見た時は驚き、大き さから精巣腫瘍との鑑別が出来ず 2 例ほど精巣 摘出したことを覚えています。

腎結核や腎腫瘍でよく見られる無機能腎の検 査も中部病院流の検査が大変役にたちました。 拡張した腎盂や腎杯を穿刺して造影するのが一 般的でした。細長い針を使用し目測で背部より 腎盂を刺します。尿の流出を確認して造影剤を 注入したり、またサンプルを採集したりして診 断していました。

一度で穿刺に成功することはまれで、数回の 穿刺を余儀なくされ、忙しく時間が足りない診 療現場では、大変な作業でありました。しかし 間もなく昭和 50 年代に入り超音波機器や CT・ MRI が登場し検査は飛躍的に進歩しました。 乳び陰嚢や乳び血尿症の診断も例外でなく容易 になりました。

中部病院で 10 年間務めた後、平成元年に私 の出身地金武町に帰り、ほくと会北部病院(ベ ッド数 104 床)の開設に合わせ、院長として赴 任しました。この年は病院のベッド数規制が法 令で決まり、規制が布かれる前に多くの駆け込 み病院の開設がありました。そのため医師、看 護師、レントゲン技師、薬剤師等の医療スタッ フが不足し、その状態は以後長く続いていたた め病院管理者としてスタッフの充足には苦労し ました。病院経営に慣れほっとしたこともあっ て平成18 年に沖縄県療養病床協議会の会長に 推薦され就任しました。

その年の暮れ12月厚労省より医療費適正化 計画にそって、全国の療養病床 37万床を15万 床へ削減すると発表され、平穏であった会長の 役職に暗雲が立ち込めてきました。全国の療養 病床の病院はベッド数を半分以上削減するよう 迫られたのです。心配したわれわれ会員は日本 の慢性期医療を担う療養病床の危機を回避すべ く、削減の撤回を訴え続けました。

その当時から日本の医療事情は極端に悪化の 一途を辿っていて、急性期医療も例外でなく危 機が叫ばれていたのです。

慢性期医療の入院ベッド削減でこれ以上医療 状況を悪くすると日本の医療は成り立たない状 況でありました。厚労省も次第に慢性期医療の ベッド削減は強く迫ってこなくなりました。転 換した施設も中にはありますが、現在まで医療 療養病床の多くのベッドはそのまま存続してい ます。

近年、療養病床の新たな動きがあり、急性期 病院の後方支援病院として、その重要性が見直 されています。

平成24年3月、3期6年間の慢性期医療協会 の会長の役を降り、病院経営に専念しています。

これからは自分の健康保持のため、たまにはゴ フルを楽しみ仕事後は、病院のすぐそばにある沖 縄タラソセンターで水泳、筋トレ、ストレッチ等 を日課にして過ごしていきたいと思います。