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医師生活 45 年

眞榮城 尚志

新垣病院     眞榮城 尚志

先日、編集委員より、突然、原稿の依頼があ った。来年の干支の人達への原稿依頼らしい。 気がついて見ると来年は小生の干支である巳 年。還暦を過ぎて12年、まだ現役で働いていて、 歳のことはあまり考えていなかったが、この機 会にこれまでの医師人生を振り返るのも区切り になると考え、ペンを取ることにした。大学に 入学したのは昭和 35年、丁度60 年安保の年。 日本中が安保闘争一色で染まり、全国の大学を 揺り動かし、騒然としていた。授業に出席する のは常に半分以下、大半は国会周辺のデモに参 加していた。安保闘争に便乗した訳ではないが、 医局講座制改革、無給インターン制度廃止など もスローガンにあがった。昭和 41 年、大学を 卒業。1 年間のインターンを終え、昭和 42 年春、 国家試験に臨んだ。安保闘争の煽りで受験者は クラスの半分であった。国家試験当日は東京で は珍しく、朝から大雪であった。試験場の外は 安保反対のシュプレヒコールが鳴り響き、試験 に集中できる状況ではなかった。当時の事は今 でも鮮明に憶えている。休憩時間に控え室に戻 ると、循環器の教授が、お菓子を持って陣中見 舞いに来てくれた。当時は教授といえば雲の上 の存在であったが、妙に近親感を憶えた事を思 い出す。その後、インターン制度は次の年をも って廃止となった。医局講座制改革運動はその 後も十数年続き、日本の医学研究の停滞に繋が ったと言われた。国費留学生であった小生は、 昭和 42 年 5月、国家試験合格証を携え、琉球 政府厚生局に挨拶に伺った。来たのは二人だけ であった。二人とも精神科希望で、彼は宮古出 身ということもあり宮古病院へ、小生は金武の 琉球病院へと配置が決まった。金武での勤務は 僅か 2 年という短い期間であったが、その後の 小生の診療に大きな影響を与え、心の支えにな っている。当時は復帰前の時代で、健康保険制 度はなく、治療費は自費であった。莫大な費用 がかかり、どうしても短期間の治療になってし まい、中断も多かった。入院しても急性期を乗 り越えると、早めに外来治療へ引き継いでいた。 金武の病院は政府立病院のため原則治療費は無 料であったが、県内から大勢の患者がバスを乗 り継ぎ、1日がかりで来院し、少ない医師と職 員で診察を行っていた。即入院する程の重症で も、常に病棟が満床という事態では簡単に入院 ができず、仕方なく外来で治療するしかなかっ た。家族も医師も職員も何とかしなくてはとい う切羽詰まった思いが強く、ギリギリ外来治療 で乗り越えていた。当時の事を思うと、やれば なんとかなるものだとその後の診療で困った時 は、いつも当時の事を思い出し、自分を奮い立 たせてやっている。当時、向精神薬は既に使用 されていたが、興奮状態や急性幻覚妄想状態を すぐに改善しなければならない必要に迫られ、 電気ショック療法も行っていた。現在では麻酔 科を備え、身体的に緊急対応が出来る病院でし か行えない治療であるが、当時は一般の精神病 院ならどこでも行っていたもので、特に事故は なかった。当時は家族の支えも大きく、盆・正 月には殆ど全員外泊出来たものである。徐々に 核家族化、保護者の高齢化、持ち家の減少(ア パート化)などが進み、外泊が困難となりつつ ある。時にはホテルに外泊する事態も起きてい る。私宅監置は法律上は既に禁止になっていた が、当時はまだ沢山残っていた。保健所の職員 と一緒に、月に数回、近隣の患者宅を訪問、入 院治療を促していた。あるケースは太い鉄格子 の小屋に監置され、出入り口がなかった。小屋 から出すには鉄パイプを切断するしかなかった のである。また別のケースは新聞折り込みの裏 の白紙に一面にギッシリと小さい字で、同じ数 字を繰り返し書いたものが何百枚も出てきた。 本人に数字の意味を聞いてもすでに痴呆状態に 陥っていて、分からなかったが、どうも監置さ れた日付を忘れないようにと書いたものではな いかと思われた。いずれの監置も衛生的には極 悪で、排泄物は外から水で流す構造になってい た。入院には、まず髪を切り(女性も同様であ ったように思う)、シラミや糞などの汚れを落 とし、入浴させ、それから診察というパターン だった。長い間未治療で放置された患者であり、 恢復には難渋した。沖縄県という医療の貧困と 戦争の被害も大きく、戦後の混乱期も重なって、 精神医療は悲惨な状況であった。これでいいの かと常に自分に言い聞かせ、何か自分に出来る ことはないかと反省した 45 年であったように 思う。これからもささやかながら沖縄の精神医 療に寄与したいと願っている。当時の一端を思 い出し、自己の反省を込めて、今一度思いを新 たにした次第である。