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救急医療週間(9/9 〜 9/15)によせて
〜たらい回しのない沖縄の救急〜

宮城良充

沖縄県立中部病院 院長 (救急科) 宮城 良充

はじめに

今年も9 月9 日を含む1 週間の“救急医療週 間” がやってきた。これまで、救急専門医がそ れぞれの活動分野の救急について解説してき たが、筆者は今年度で現場からリタイアするこ ともあり、救急医療を引き継ぐ後輩への申し送 りをかね、救急医療の仲間が誇りとしている“た らい回しのない沖縄の救急” ができるまでの歴 史と要因を示したい。なお、詳しい沖縄の救急 医療は本会医師会史2 の拙文をご覧頂きたい。

救急医療の歴史

救急が医療の根本と言われながら、体系的な 医療として取り組まれるようになったのは比較 的新しい。救急先進国の米国でさえ1950 年代 には救急患者の搬送は葬儀屋であったという。 当時は救急患者の多くは病院到着前になくなっ ていたからであろう。1960 年になると外傷や 内科救急を受け入れる“救急室” を持つ病院が 出てきたが、専属医は居なかった。市中で発生 する救急患者を初療するのは開業医で、増え続 ける救急患者に病院も対応するに難渋し始めた ころ、開業医が病院に勤務し救急患者に対応す る“救急医” となったのが1961 年と言われて いる。そして1968 年救急を専門とする医師が 集まり米国救急学会を発足させている。

我が国の救急医療

さて、我が国の動向はどうであったろうか。 我が国でも1930 年代以前までは、救急患者は 家族や周囲の人たちによって町医者に担ぎ込ま れていたであろう。1933 年になって赤十字や 警察が救急車を一部の都市で走らせるにとどま っていた。

本格的に救急患者の搬送について体系的に取 り組まれるようになったのは、敗戦後救急搬送 業務が各自治体の業務として位置付けられてか らである。それぞれの自治体で救急搬送業務が 実施されたものの、内容に格差があり整備統一 するために1963 年に法改正され、あわせて救 急患者を受ける側も整備され、救急告示病院制 度がスタートした。

増え続ける休日夜間の患者のために1972 年 休日夜間急患センターが作られるようになり、 さらに増え続ける患者を効率的に診療するべく 1977 年初期、二次、三次と重症度に応じて患 者を受け入れる施設を設定、全国に救命救急セ ンターが整備された。また、従来救急隊の取り 扱う患者を内科患者まで広げ、1988 年に救急 告示病院の要件も変更された。その後プレホス ピタルケアの充実のため1991 年救急救命士法 が発令、1995 年の阪神淡路大震災の反省から DMAT の結成、ドクターヘリの導入が進んで いる。

沖縄の救急医療の歴史

沖縄は27 年間、祖国から切り離されていた ため、医療制度、医療保険制度、社会福祉など 1972 年の祖国復帰後、堰を切ったように整備 が進められた。救急医療についても国の救急医 療体制整備政策のもと、休日夜間診療所、救急 告示制度、中部病院の救命救急センター開設な ど、本土に追いつけ、追い越せと努力がなされ て来た。

しかしながら、救急医療に関して、私は別な 見方をしている。むしろ、救急医療については、 365 日24 時間救急患者がたらい回しもなく治 療されている沖縄こそが、正道を歩んできたと 自負したい。中部病院のゼネラル重視の研修制 度が、新臨床研修制度のモデルとなったように、 国内の重症集中治療型救急施設が、我々が綿々 と先輩方から引き継いできたER 型救急機能を 合せ持つよう、方向転換し始めたことが示して いる。

“たらい回しのない救急” の要因

では、沖縄で出来ている理由は何であろうか と、私なりに整理してみた。

  1. 離島県かつ島嶼県であること。隣県の鹿児 島県とは海が隔てるため、日常の医療から救 急まで地域内完結する医療をせねばならぬた め、これが医療人の覚悟と気概を醸成し、相 応の施設整備が進められてきたこと。
  2. 戦争は甚大な人的・物的損害の爪痕を残し 終結した。医師の絶対数が不足する中で医療 は復興していったが、少ない医師は専門科を 超えた診療も求められ、かつ専門領域の救急 ができることが要求され、全員参加型の救急 がなされてきたこと。
  3. 終戦後、米国主導のもとで医療の復興が進 められたが、そのため病院は開放型であり開 業医が利用する形態であった。病院は重症患 者と救急患者を収容するためのものであった ので、いつでも救急患者を受け入れるER 型 救急が始められ、現在も続いていること。
  4. 1967 年に始まった中部病院の臨床研修度 が沖縄の救急医療に与えた影響は大きい。当 時の医師不足から疲弊していた医師の力強い 助力とその存在による病院の活性化、そして ゼネラル教育を受けた修了生が沖縄県に留ま り、ER 型救急を県内にて展開していること。
  5. 自他共に県立病院が“最後の砦” と認識さ れている。戦後の医療の復興は公的病院を中 心に進められてきたので、職員も“自分たち が見放したら患者はどこへ行けばいいんだ” の強い使命感で勤務を続け、これが伝統とな っている。消防も困ったら県立へ搬送業務を、 民間病院も公的病院への信頼も厚く積極的に 救急医療に参加協力していること。

あげた要因を考察すると、戦争での大きな人 的物的損失、離島・島嶼県、米国施政権下など に結びついていることが分かる。このような逆 境が人々を困難に立ち向かせ、工夫する知恵を 導き出させ、協動への一体感を醸成したと言え るであろう。

加えて、沖縄独特の国費自費制度の存在も大 きかったと考えている。この制度で医師となっ た人たちが沖縄の医療全体を牽引してきたが、 救急も同様である。そして、これからあと7 年 もすればこの制度で医師となったものたちは定 年を迎え現場から立ち去る時期を迎える。その ときこそ次世代の医療人の真価が問われる。こ れから先もたらい回しのない救急が引き継がれ ていることを期待したい。