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哀愁のパナリ

仲原靖夫

仲原漢方クリニック 仲原 靖夫

『哀愁のパナリ』は竹富町新城上地出身の写 真家、故大浜博吉氏の作品で、パナリ島をモチ ーフにした航空写真である。往時の活気が失わ れた島を見て、思い出と郷愁が抑えられなかっ た哀しみを共有できる。新城島パナリは上地、 下地の二島がさんご礁のリーフで繋がり干潮時 歩いて渡れる。上地は辛うじて島人が住み続け、 現在に至るが、下地は昭和37 年最後の三所帯 が島を出て廃村になった。その後、企業が牧場 を経営し、管理人が下地の島民となった。リゾ ート施設も運営されたらしいが、今はその廃屋 が残る。

今年廃村から50 年に当たる節目の年で、島 に対する思い入れの深い闘病中のM 氏の呼び 掛けで下地島訪問が企画された。

私は下地島で昭和25 年に生まれた。島の中 学校が廃校になった昭和29 年前後に子供を持 つ家族は次々と島を出て、対岸の西表島の大原 や石垣市に移って行った。一緒に遊ぶ子供が一 人ずついなくなり、最後に残ったのは私だけと なった。その私も5 歳の頃、幼稚園へ入園を機 に、祖母と二人の暮らしの島を離れ、石垣島の 母のもとに移った。

幼かったにもかかわらず島の暮らしの記憶が なぜか鮮明に残っている。野原や山でグアバや 野葡萄をとって食べたこと、豊年祭でアカマタ、 クロマタが非常に怖かったこと、豊年祭(プル) の前日に祖母が司を務める西御嶽(イルワン) に泊まり込んだこと、アカマタのまねをして遊 んだこと、小学校の低い鉄棒でも高くて手が届 かなかったこと、島には紙がないのでトイレッ トペーパーの代りはユウナなどのやわらかくて 大きい木の葉であったこと、年中枯れることの ない雨水の井戸があり非常に深かったこと、アダンの気根を割いて乾かし、細い繊維(アダナ ス)にして綱をない、いろいろな用具が作られ たこと、蘇鉄の実の食料への加工等々限りなく 思い出される。最後の記憶は村の道を一人で三 輪車に乗っていたことである。

そんな思い出の島に久しぶりに島の出身者で 渡ることになった。梅雨空の5 月20 日のこと である。当日雨は降っていないものの曇り空で、 約20 名が集まり、午前8 時20 分に石垣の新 栄漁港を高速船で出発した。約40 分で島に着 いたが、小さいころの記憶ではエンジン付きの サバニで山から谷に滑り下りるように波にもま れて、四、五時間かかった。今では島に桟橋も でき、牧場の自動車が通る道を通って島の部落 あとに向かった。島の中に入ってすぐ右手の林 の中に東御嶽(アールワン)の跡がある。豊年 祭(プル)でアカマタ・クロマタが舞を奉納す る島の中心となる拝所である。さらに道のない 疎林の中を進むと鉄棒のコンクリートのポール のたった学校跡に出た。そこにリゾート施設の 廃屋があり、滞在拠点にした。村跡の中心には プルに関連した拝所『神宿り』(カンヤドゥル) があり、そこを訪れた頃雨が降り出した。今度 の目的の一つは『中盛』(ナハムル)と呼ばれ る火番守跡を訪れることであった。雨の中を島 の中央に向かって歩いた。途中から牧草地の有 刺鉄線を何度もくぐりながら進む。島の中央は 次第に標高が高くなり、中盛が最も高く標高 27 メートル(地図では20.5 メートル)。そこ に3 メートルほどのらせん状の石積がある。そ の上に登り、島の周囲を見渡すと海を隔てて西 表島、由布島、小浜島、上地島、黒島、その向 こうに石垣島のオモト岳も見える。天気が良け れば南に波照間島、西に仲御神島も見えるとい う。その見晴らしのよさを子供の頃の記憶と重 ね合わせて確認できた。さらに牧草地を西に横 切って道なき道を500 メートルほど歩く。次 の訪問先は西御嶽(イルワン)である。傘をさ し雨に濡れ、足腰の衰えを感じながらやっとつ いた。元は瓦屋根のついた拝所であったが、今 は四隅のセメント壁と正面の突き当りに、ご神体ともいうべき珊瑚石灰石が素朴な神聖さを残 していた。

更に雨の中を部落に戻るように1 キロほど 東に歩く。途中に『中山』(ナハヤマ)という プルの行事の場所と、『ななぞう御嶽』(ナナゾ ウウガン)というザン(ジュゴン)を祭った拝 所がある。首里王府時代ジュゴンの肉は米の取 れない新城島の上納品で、『御膳本草』による と強壮の効能があるという。以前は肉を取った 後のジュゴンの骨が山と積まれてあったそうだ が、現在は一つも残っていない。雨の中をやっ と部落跡に戻って昼食をとる。

島にもどると子供の頃の記憶と現在の空間の ずれを感じる。身長と体力の違いにより、ある 場所の距離が近かったり、高かったものが案外 低かったりする奇妙な感覚である。

食事が一段落すると島最大の行事の豊年祭 (プル)の歌がCD で流される。太鼓の拍子だ けの素朴な歌の中に島の暮らしの原動力を感じ る。小さな島で一生を終えた先祖の方々にとっ て島の空間が世界のすべてであり、豊年祭の行 事の中に共同体のすべて、生きがい、人生の価 値、美意識など文化のすべてが集約されていた と、先輩方の島に対する思いに触れるたびに痛 感する。

写真:『哀愁のパナリ』
 手前の丸い島が下地、リーフで繋がった細長い島が上地で
  その向こうに黒島、水平線の山は石垣島