なかそね和 内科 仲宗根 和則
クリニックの壁にフィリピン、ミンダナオ島 の棚田の写真がかかっている。『天国への階段』 といわれる棚田群は、そこに住む少数民族が神 へのささげ物として作ったと言われている。人 の手と足だけで、山頂を目指して一歩一歩と田 を開いて2,000 年以上もそれを維持してきた神 の子たちの労苦に畏敬の念が湧き上がる。大い なる自然に感謝し、敬い、神の息吹を感じなが ら生きた人々だ。そこには人間の不断の努力の 跡が刻まれ自然と一体化している。霧のかかる 山頂へと続く棚田は、神(自然)と人間との良 き関係を示すものだが、自然免疫に対する医者 の心構えにも一脈通じるものがある。
医者の本分は、勿論病気を治すことに異論は ない。しかし、治療の大部分は、患者の不安を 取り除くことにあるのではないかとさえ思え る。笑いが治癒を早め、不安の渦中にいる患者 の風邪がなかなか良くならないのは、日常の診 療でよく経験するところである。患者の不安を 取り除くということは、あまりにも平凡で、空 気のように意識に上らないが、普遍的でありな がら、実は医者の隠れた重要なミッションと思 える。患者の頭上には、魑魅魍魎の類のあらゆ る不安の暗雲が常に立ち込めている。ほとんど が杞憂であるこれらの不安が、患者の生活を支 配していることが多い。『大丈夫。心配しなく ていいよ。』日に何度も繰り返される魔法の言 葉。安心が治癒に向けての良い流れを作る。ア ドレナリンからカテコラミン、エンドルフィン へスイッチされる。血圧が下がり、よく眠れる ようになる。食欲が回復する。身体の中で何か が動く。医師の仕事も、定期的に畦を補修し、 棚田の水路を塞ぐ落ち葉や泥を取り除いて水路 を整える作業に似ている。地味な仕事だが、怠ると棚田は崩壊するのだ。水路が命の詩を奏で ると、後は水と太陽と土が主役だ。黄金色に染 まる一面の棚田が約束される。一粒の米さえ作 れない人間は、安らぎの中で実りを待つ。人生 のいい時間が流れる。
医者が前座を勤める頃に『神の手』は既に静 かに起動している。悠然として速やかに、遅滞 なく華麗に、動的平衡の収束へ振り子を戻す。 真打ち『自然免疫』の登場である。身体の内部 には人智を超えた抗原監視機構が張り巡らさ れ、捕捉は完璧だ。樹状細胞、抗体、白血球、 リンパ球、サイトカインの実行部隊は厳選され た超エリートとして、水も漏らさぬ配備を敷い ている。レセプターにも狂いは無い。内分泌系、 神経系も自然免疫という神のオーケストラでは 欠かせない存在だ。悪役の細菌やウィルスさえ、 黒子として重要な役割をもらっている。壮大な 演奏の前後で、前庭を掃き清め、静謐を保つの が私のような内科医の役割。間違っても交響曲 に不協和音(不安)を入れないようにしたいも のだ。又人間の創造した科学に熱中するあまり に、大いなる流れに棹さす治療(薬や技術への 過依存)をしていないか、耳をそばだてながら、 自然治癒の鼓動に耳を傾けよう。棚田の民が神 (自然)を敬い、それに従うように。
今日も難しい治療を受けた患者が、セカンド オピニオンを求めて駆け込んでくる。学術用語 は饒舌なくせになかなか患者と視線を交わさ ないものだ。診断基準や治療指針は、患者には 外国語で書かれたPC 言語の響きに聞こえるよ うだ。説明を聞けば聞く程に、雲の上を歩くよ うな覚束なさを感じるのだろう。人肌の温かさ を求めてくるこのような場面こそ町医者の出 番だ。学術用語の翻訳(意訳)のエキスパート として、又は自然免疫の語り部として不安の 雲を払う。権威で飾られた数字に批判的な科 学者の目を向け、パッチアダムスの心を理解 する。時には事実よりも重い嘘もつける心理学 者。『大丈夫。心配ないよ。』というヌチグスイ の言葉を来る日も来る日も、何度も何度も繰り 返す。プロフェショナルの誇りをかけて。『安心の請け負い医』としての職人芸に磨きがかか る。多年の人間観察(酒と読書)も無駄にはな るまい。起死回生のユーモアと比喩。錯覚する 脳と哲学する筋肉も町医者の好む話題。無農薬 野菜と囲碁。花と手芸。マクロレンズの世界。 陽が射し込み、笑い声が逃げないそう広くない 待合室。有り余る時間も大切な舞台装置。『そ ういうことだったの。ありがとう先生。』ホッ とした患者の顔に紅が差す。小満の時間がゆっ くり流れる。