沖縄県医師会災害医療委員会委員
(名桜大学)出口 宝
平成24 年3 月18 日(日)、遠野市市民セ ンター大ホールで「東日本大震災・後方支援 の集い〜「縁」が結ぶ復興への『絆』〜」が 開催されました。本集いは、東日本大震災に おいて遠野市と共に物的人的支援を行った自 治体、関係機関・団体が集まり、震災発災か ら一年を経過するにあたって遠野市民と一同 に会してこれまでの活動を振り返り、新たな 連携のあり方について考え、復興元年として 力強く歩き出すために開催されました。そし て、翌19 日には遠野市が準備されたバスで 釜石市、大槌町への視察が行われました。
満席の市民センター大ホール
雪の舞う中、会場となった遠野市市民セン ター大ホールの800 席の会場は関係者や市民 ら900 人で埋め尽くされていました。ロビー には震災時に遠野市災害対策本部で使われて いた震災対応記録が掲示されており、3 月16 日の13:00 に沖縄県医師会(来遠)到着との 記録がありました(写真1)。筆者ら招待され た自治体、関係機関・団体の代表はステージ上のひな壇に着席する中、幕が上がり集いが 始まりました。
写真1 震災当時に遠野市災害対策本部に張り出されていた震災対応記録。下から3 行目に13:00 沖縄県医師会(来遠)到着とある。
詩の朗読と黙祷、そして感謝状・感謝の盾贈呈
真っ暗な中、ステージ中央でスポットライ トに浮かび出された陸前高田市米崎町出身 の詩人照井良平氏による「ばあさんのせな か」と題された詩の朗読で第1 部が始まりま した(写真2)。この詩は平成23 年国民文化 祭の現代詩部門で最優秀賞である文部科学 大臣賞を受賞されたとのことでした。
写真2 詩の朗読によるオープニング。
次に参加者全員により黙祷が東日本大震 災で犠牲になられた方々へ捧げられました。 そして、東日本大震災で遠野市を拠点として 活動した115 の自治体や関係団体に感謝楯・ 感謝状贈呈が行われました。当日のステージ では出席した39 の自治体や関係団体に感謝 楯が贈呈され、13 の関係団体に感謝状が贈 呈されました(写真3)。本会へは感謝楯が 贈られました(写真4)。
また、平成20 年に三陸津波を想定して、遠野市を後方支援拠点とする総員18000 人、 車両2300 台、航空機43 機が参加した大規模 な訓練「みちのくALERT2008」を実施した宗 像久男元陸上自衛隊東北方面隊総監に特別感 謝状が贈られました。この訓練のお陰で発災 直後から速やかに遠野市に後方支援基地が設 営され活動を開始することができたとのことでした。
写真3 遠野高校の生徒がプレゼンテーターを努めた感謝楯の贈呈。
写真4 遠野民芸家具によって作成された感謝楯。
贈呈式に続いてに支援自治体及び団体ス ピーチがありました。 その後、この一年を振り返る(DVD 上映)として、この一年間の遠 野市の支援活動を約5 分に纏めたDVD が上映され第1 部が終りました。
被災地を支えるのは人の絆と組織の絆
第2 部は、遠野市に救援・復興支援室を置い ている東京大学の濱田純一総長による「人の絆、 組織の絆 〜 「絆」を明日へ 〜」と題した講演 により始まりました。濱田総長は、『震災から1 年が経過して、さまざまな動きが出ているが復 興というにはほど遠い状況にある。これからが 正念場となり、後方支援活動は息長く取り組ん でいかなければいけない。現代社会で薄くなっ ていた絆がこのたびの大震災で呼び起こされ た。日本の社会全体を支える言葉であり、今後 も色あせることなく絆を明日に向けて強めて行 くことが大切である。絆をいつも持ち続けるこ とが出来るか、どのように具体的な仕組みにす るのかを考えておくべきだ。人の思いは時間が 経つとうつろい忘れていく。時とともに薄れる 人の思いを支えるのが組織の絆である。被災地 を長く支えるには人の思いや絆と組織の絆の両 方の絆が重要である。現代の人々のつながりは 薄れているが、現代はむしろ絆を強めなければ 生きていけない時代である。一人ではできない という思いは強さを引き出す。絆を作ろうとす るからだ。絆という言葉が大震災後の流行語に なってはならない。絆は日本の活力を取り戻す のを後押しする。』と会場に話しかけられました。
さらに絆を強く太くして復興を後押し
講演に続いて、本田敏秋遠野市長による主催者挨拶が行われました。本田市長は、『す でに1 年が過ぎた。改めて、この東日本大震 災は無念で悔しく何とも言えない悲しみであ る。被災地の方々にとっては、そのような状 況の中で1 年が過ぎていった。我々は気持ち を一つにしながら、被災者の皆様に寄り添う ことを形にしていかなければならない。今日 の集いは、まさに復興元年に向け、絆を感じ、それを太くし、更に強いものにする場になっ た。被災地の皆様の復興を力強く後押しする 決意の場であったと思う。小さな街でも全国 各地の仲間とつながれば大きな力を発揮でき る。心と言葉のコミュニケーションは人と人 をつなげる。全国に多くの仲間がいると思っ ている。今後もさらに絆を強め、沿岸被災地 を力強く支えていく。全国から集まって頂い た遠野市の後方支援を応援していただいた皆 様に改めて感謝と御礼を申し上げる。』と挨 拶されました(写真5)
写真5 本田敏秋遠野市長による主催者挨拶。
市町村と県国が一体となった人間本位の復興
次に、岩手県達増拓也知事(代読 岩手県 復興局廣田淳副局長) による来賓挨拶があり ました。達増知事からは、『遠野市は沿岸被災 地後方支援連携会議を設置され、全国の自治体 や関係機関・団体連携の下、沿岸被災地への後 方支援活動を展開する上で重要な役割を果た している。改めてこれまでのご尽力に心から 感謝と敬意を表する次第である。県では岩手 県東日本大震災津波復興計画を策定した。本 年は復興元年として実質的な復興へのスター トとなる年である。復興への3 大原則として「安 全の確保」「暮らしの再建」「生業の再生」に 向けた取り組みを一層強力に推進し、市町村 と県国が一体となり、様々な自治体の協力を 得ながら被災地、被災者に寄り添った人間本 位の復興に取り組んでいかなければならない。皆様には引き続きご尽力とご協力をお願いし、 どうか息の長いご支援を賜りたくお願い申し 上げる。』との挨拶が伝えられました。
一人一人の心の復興、生活の復興が真の復興
そして、被災12 市町村による岩手県沿岸 市町村復興期成同盟会の代表として野田武則 釜石市長による沿岸自治体からの報告が行われました。
野田市長は、『12 市町村で期成同盟会を結 成し、横の連携を深めながら県・国に対し、 様々な情報提供・要望等の活動を展開してき た。あれほどの津波がくるとは考えていな かった。釜石では明治2 年の三陸津波で6000 名の犠牲を出し、当時の記録として「大海嘯 記録」で津波の恐ろしさを伝えているが、3.11 でその教訓を活かすことができなかった。
釜石では被災者の方々は8 月に仮設あるい はみなし仮設に入り、まがりなりにも生活が できる環境が出来た。220 の事業主も仮設で 事業を再開している。防潮堤のお陰で被災し たが流されずに残った建物が多く、これらを 解体すると80 万トン、40 年分の瓦礫となる。 県外へお願いしている。放射能は国が示す基 準以下であり、理解を得られれば早く受け入 れてほしい。本格的な集落や街の構想は意見 交換を行っている。計画も大体纏まりつつあ る。財源確保に向けて国と地方と協議中であ る。また、建築関係の人材と資材不足などの 課題も山積している。大槌、陸前高田は被害 も甚大で、未だに行方の分らないご遺族の皆 さん、家族の皆さんが未だ心の整理がつかな い中で、我々は復旧復興と言う言葉を使うに も非常に気を使っている。一方で、早く事業 を展開したい、家が欲しいと言う方もおり、 様々な方々がそれぞれの立場でいろいろな思 いをしながら現在生活をしている。被災者・ 被災地のこうした現状についてご理解をいた だきながら、今後とも変わらぬ支援をお願い したい。一人一人の心の復興、生活の復興がなされなければ真の復興とは言えない。心の 復旧復興はなかなか難しい。これからも絆を 深めながら、被災した12 市町村の一層の復 旧復興が進展されることを皆さんと一緒に進 めさせて頂きたい。今日のフォーラムを契機 に、そうした被災地の現状をご理解いただき ながら更なる支援を賜りますよう心からお願 いを申し上げ被災地からの報告にさせていた だきたい。』と報告されました。
「縁」が結ぶ復興への『絆』をより太く
最後に『自治体、団体、個人がそれぞれの 立場において、被災地に寄り添い、被災自治 体が策定した復興計画を力強く後押しすると ともに、今後も連携をさらに深め、「縁」が 結ぶ復興への「絆」を、より太くし、相互に 助け合い、支え合う』とする決議文が読み上 げられ、参加者全員から拍手がおくられて連携と交流の決議が承認され、東日本大震災・ 後方支援の集いが終了しました。
大槌町
3 月19 日の朝、前日の東日本大震災・後方 支援の集いに出席した自治体、関係機関・団 体の代表や関係者らとともに、遠野市により 準備されたバスで釜石市ならびに大槌町の被 災地視察へ向かいました。車中では、遠野市 沿岸被災地後方支援室の菊池保夫室長の説明 で、発災当時のことから最近の状況までの説明を受けながら当時に走った道を通り、釜石 市から鵜住居そして大槌町に入っていきまし た。昨年の3 月16 日に初めて目の当たりに した瓦礫や土砂に埋まった景色からは想像も できないほどに片付いて、広々と更地が海ま で広がっていました。しかし、昨年の11 月 に訪問した時とは何も変わっていませんでし た。菊池室長のお話では、津波によって浸水 した土地には制度によりそのまま建物は建て られないとのことでした。では、どうやって 盛り土をしてかさ上げをするのか、高台に移 転するのか、しかし高台に土地がない大槌は どうすれば良いのか難しい問題があるとのお 話でした。
これからが復興のはじまり
バスが国道45 号線から県道280 号線に入り、 被災後復興した「ローソン大槌町店」とショッピングセンター「シーサイドタウンマスト」を 過ぎると城山体育館が見えてきました(写真6)。 そして大槌小学校、仮設の役場を過ぎて城山体 育館に到着しました。
写真6 釜石から大槌町280 号線に入る。城山体育館が見える。
城山公園から見た大槌町内は整然と片付けら れたようでしたが、遠く海の近くに瓦礫が積み 上げられていました(写真7,8)。休みの日に はこの城山体育館に多くの観光バスがやって来 るとのことでした。バスは城山を降りて大槌町 内を走り、被災した役場に到着しました(写真 9)。役場の前には献花台が置かれ、多くの花や お供えがされていました。町には何も無くなっ てしまって視界を遮る建物は無く、ここから は町の隅々まで広々と見わたすことが出来まし た。その後、この震災で壊滅した大槌北小学校 のグウランドに建てられた仮設商店街を訪問し ました。街の中ではほとんど車や人の姿を見る ことはありませんでしたが、ここでは多くの車が出入りして買い物にこら れる人々の姿を見ることが できました (写真10)。
写真7 城山公園から見た町内大槌川方面(東方)。
写真8 城山公園から見た町内水門方面(南方)
写真9 大槌町内280 号線から見た県立大槌病院(左奥)と大槌町役場(右前)。
写真10 大槌北小学校のグラウンドに造られた仮設商店街。
今回は団体行動であった ために大槌の皆さんとお会 い出来なかったことが心残 りでしたが、今回の訪問の 予定が終了して帰路につく こととなりました。釜石市 に向かう沿線では瓦礫置き 場で瓦礫の処理が続けられ ていました。
人の絆と組織の絆
今、遠野市は後方支援のモデルケースとして 全国の自治体から注目されています。それは震 災前から全国各地の自治体との「縁」が結んだ 「絆」があり、沿岸地域の津波を考えて真摯に取 り組んでこられたからであると思います。遠野 市に学ぶことは多々あるのではないでしょうか。
本会の医療班は昨年の5 月31 日に大槌町 での活動を終了して沖縄に帰りました。しか し、その後も被災地の方々にとっての震災は 続いており、一年経過した今も様々な問題が 山のように立ちはだかっていました。人の思 いは時間が経つとうつろい忘れていくと濱 田総長は話されました。これは人の性(さ が)なのでしょう。そして、これからは人の 絆と組織の絆を両輪にすることで被災地に寄 り添って支援を続けようと語りかけられまし た。復興にはこれからも何年もの時間が必要 であり、さまざまな支援が必要と思われます。 このたびの震災が人々の心の中で風化しては ならない、そして、絆という言葉が大震災後 の流行語になってはならない、震災から一年 が経って今回の集いに参加し、大槌町を訪れ て改めて感じることが出来ました。
今、振り返ってみると本会の大槌町医療支援 も県内医療人の「絆(思い)」と本会の「組織の絆」 があったからこそ出来たのではないでしょう か。これからも、本会の人の絆と組織の絆がさ らに太く強くなることを願っています。