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辰年に因んで

平安明

平安病院 平安 明

年男なんてこれまでさほど意識したことはな かった。今回の依頼をきっかけに生まれ年とか 人生の節目といったことを少々考えてみようか と思う。

昭和39 年というと象徴的なのは東京オリン ピックの開催であろうか。敗戦国からの国際社 会への復興の象徴として日本中が湧き上がった とのことであるが、当然私は生まれたての赤ん 坊で実感としては何も残っていない。日本は昭 和30 年代後半〜 40 年代と経済発展著しい高度 成長期に入り、それ行けやれ行けといった時代 に突入する。政治、経済、人々のライフスタイ ル、様々な価値観の衝突、等々いろんなことが ハイポテンシャルに営まれた時代であったと思 う。そんな中、私たちの世代の多くは何となく ぬくぬくと安定した環境の中を過ごしてきたよ うに思う。(勿論人それぞれなので異論のある 方も多いでしょうが一人のS39 年生の戯言とし て受け流してください)

「安心」と「安全」が当たり前のようにある 社会、みんなが支え合って豊かな老後を生きて いけるような社会に、と多くの人が一生懸命頑 張ってきた時代を、私は若干当事者性を欠いた 立ち位置で他人事のように眺めながら人生の最 初の四半期を生きてきたような気がする。こん な腑抜けた状態から抜け出したのは医者になっ てからであろうか。医学生時代は兎に角デタラ メな生活で「こんなモチベーションの人間が医 者になってはいかん」と自分で屁理屈をいって は朝まで酒を飲みながらわけのわからない議論 を見ず知らずの人と交わしているという日々で あった。そんな時期が無意味とは言わないが、 大きな無駄を伴う貴重な体力の消耗であったこ とは否めない。

辛うじて脳がまだ若かったせいか、国家試験 は馬力でクリアし久留米大学の第二外科に入局 した。昨年還暦を迎えた北部地区医師会の名嘉 真透先生のお勧めであった。(名嘉真先生とは 久留米大学の学生の頃から県人会の場で何度か へべれけになるまでお酒を飲ませていただいた ご縁があった。---これ以上の詳しいことは言 えない)

名嘉真先生の恩師中山陽城先生は私が入局し た時には既に胃癌のため他界されていたが、そ の遺志を受けついだ素晴らしい諸先輩方に恵ま れ、充実した研修医時代を送らせていただい た。この時期に、人として、社会人として、医 師として、仲間として、男として、どうあるべ きか、みたいなことを教えられたように思う。 未だ殆ど実践できていないが---。

当初から予定していた通り、平成6 年には精 神科医になるべく琉球大学精神神経科に研究生 として入局した。沖縄に帰る当日まで術後ICU で受け持ち重症患者の血漿交換をしており、飛 行機に間に合うギリギリの時間まで病院に残り 後ろ髪を引かれる思いでの帰沖となったが、同 じ徹夜組の同僚や後輩が久留米から福岡空港ま で見送りにきてくれたのは今でも貴重な財産と なって胸に残っている。

琉大で精神科医として研修後、平成9 年から は病院の経営を引き継ぎ理事長職に就くことに なった。36 歳の年男の時であった。

あれから干支が一回りした。この間医療界は 激動の時期を迎え、政治も経済も人々の関係性 を含めた社会構造も、高度成長やバブルのつけ とも言えるがんじがらめの状況に陥っている。 この厳しさはあの時代ぬくぬくと過ごしてきた 自分たちが背負っていかなければならないこと かも知れないと思い、先輩たちの苦労ほどでは ないが、次世代に新しい形で再生できるように バトンを渡していくことが私たちの世代に与え られた課題だと考えている。

最後になるが、昨年は大災害の年であった。 千年に一度という戦争世代ですら味わっていな いとてつもない大災害である。多くの方が犠牲 になった。何度お悔やみをいっても足りない。 図らずも私たちは世代や価値観を超えてこの重 大な局面を乗り越えていかねばならなくなった。

地震、津波だけでなく、原発の問題が足を引 っ張り、本当に先の見えにくい厳しい状況であ るが、もう一巡干支が回り還暦を迎える頃に は、震災を乗り越え新しい日本のあり方を皆が 語れるようになっていて欲しい。そのために何 ができるのか人生後半の自分自身の課題にしよ うと思っている。