辻田労働衛生コンサルタント・産業医事務所
辻田 敏
我が国では還暦祝いに赤い頭巾やちゃんちゃ んこを贈りますが、昔は魔除けの意味で産着に 赤色が使われ、還暦は生まれてきた時に帰ると いう意味でこの慣習があるそうです。つまり還 暦は新しい人生の出発点ですが、その前に悔い 多き人生を回顧してみました。
私は石川県七尾市に生まれました。日本海に 面し魚が旨くのんびりした土地柄です。地元の 高校をでて金沢大学薬学部に入学し大学院修士 課程まで進みました。大学院をでた昭和52 年 はひどい就職難の年でしたが幸い指導教授の推 薦をうけて大手家庭品メーカーに入社し北関東 にある研究所で研究開発を担当しました。その 頃に開発した商品が20 年以上たった今もスー パーやドラッグストアで売られているのが少し 自慢です。
就職後すぐに結婚し20 代後半に子供が生れ ました。その頃は仕事が楽しくて連日夜遅くま で残業しましたが若くて体力があり疲れは感じ ませんでした。しかし30 代で役職についた頃 から人間関係の軋轢に悩まされ不眠や体調不良 が続きました。社員の健康に配慮のある会社だ ったのですが、仕事ストレスへの対応は十分と はいえませんでした。
ならば私がストレス対策を指導できる産業医 になろうと無謀にも決意し、昼は仕事をこなし つつ夜や土日に猛勉強して38 歳でついに大阪 大学医学部に合格しました。妻と二人の子供た ちもよく協力してくれました。
平成3 年の春に北関東の宇都宮市から関西の 奈良市に移住しましたが、生活習慣の異なる関 西での暮らしに家族はずいぶんと苦労したよう です。一方、医学生になった私はさながら人生 の夏休みのような気分でした。老化で記憶力が 低下した脳に膨大な医学知識を詰め込むのは大 変な苦労でしたが、若い同級生たちと切磋琢磨 しながら平成7 年に医学部を無事卒業して42 歳で医師になりました。初期臨床研修では私よ りも歳の若い指導医の先生方や看護師さんたち に苦労をおかけしました。すみません。
臨床研修を終えて産業医学に軸足を移した 頃、突然スギ花粉症を発症しました。ちょうど 環境医学(衛生学)教室の助手に採用されてス トレスと免疫の関連を研究していた頃で花粉ア レルギーも調査していたのですが、まさか自分 がそんな病気に罹るとは思いもよらず、皮肉な ものです。その後大学を離れて病院で働くよう になっても病状が年々悪化し春先には鼻炎や咳 で息も絶え絶えの有様で、これ以上悪化させる と危険だと判断して平成19 年にスギ花粉が飛 ばない沖縄へ移住を決行しました。子供たちか らは仕事や大学があるから行かないと言われ、 妻と二人だけでの移住でした。
移住先の那覇では日本郵政の専属産業医の職 を得てついに仕事ストレスと正面から向き合う ことになりました。産業医になろうと志してか ら20 年あまりの年月が経っていました。幸運 にも日本郵政には沖縄県総合精神保健福祉セン ター所長の仲本晴男先生が非常勤産業医として 勤めておられ、ご教授頂いたうつ病の認知行動 療法が休職者の職場復帰支援に役立ちました。 一方うつ病による休職者を減らそうと県内各地 の支店で実態調査を行ない、上司が部下を支援 する職場ではうつ病率が低いことを明らかにし て第32 回沖縄精神神経学会で発表したところ 好評を得て学会奨励賞を頂きました。郵政産業 医を3 年務めた後、平成23 年4 月に労働衛生 コンサルタント・産業医として独立し、現在は 複数の企業で嘱託産業医を務めています。
これまでの人生では知人や友人、家族に支え られて苦境を乗り越え、その御蔭で念願の産業医になり今に至っています。ですから、還暦か らの新しい人生では「ひとを支える」ことを私 の目標にします。そのためには健康第一、まず は体力づくりから始めようと思います。