大浜第二病院 田中 康範
謹賀新年。めでたさも中くらいなりおら が春(一茶) といったところか。
今般新春干支随筆の寄稿依頼を頂き、めっき り薄くなった白頭を掻きながら筆を執ってい る。紅顔の少年もいつしか60 歳。とうとう還 暦を迎えた。少年老い易くガクッと成り易いこ とを実感するこの頃である。50 を境に急速に 体力が衰え、50 半ばで気力が萎え、60 にして 知力も愈々怪しくなって来た。残ったのは借金 と年の功ぐらいだ。
永遠の若さは人類の夢。アンチエイジングが 持て囃され、胡散臭い話題に事欠かない。染色 体の端にテロミアという物質があり、これを操 作することにより千歳長寿も夢ではないとい う。あと100 年長生きできる薬が開発されたら 売れるだろうか?恐らく否だ。生きること=難 儀であることを大方の人は知っているからだ。 一方『あと10 年今の若さを保つことができる 代わりに10 年後100 %ポックリ逝く妙薬』が あったらどうするか?少し食指が動く。統計学 上60 歳の私の平均余命は23 年間。『60 歳の若 さを保ったまま10 年間限定』と『確実に自然 に老いて行く、統計学的にのみ保証された23 年間』どちらを選ぶか?
終末期の患者を扱うことが多い現場で、不自 然な生や死と対峙する機会が随分増えた。所 詮、自然の摂理には逆らえない。
光陰矢の如く60 年が過ぎ去った。戦後のど さくさの中、私は那覇市のスラム街の様な所で 生まれ育った。戦争を知らない世代であるが戦 争のツケだけは大いに背負わされ生きてきた。 赤貧洗うが如く何も無かった。特に食い物が無 い事には辟易した。反面、塾とか、習い事など 無縁の世界で、野球、パッチー、ビー玉に明け 暮れ毎日が楽しく、貧しさとは裏腹に心の中は 夢と希望に満ち溢れていた。そんな少年の頃の 遊び癖が今でも時々目を覚まし多少問題ではあ るが…。
高校3 年に上がる春休みに医学部に行く決心 をした。子供の頃医者と言えば野口英世、北里 柴三郎である。余りに崇高な世界に思え、医者 になろうと思ったことはなかった。受験が差し 迫り医学部志望へ心を動かしたのは幼少時代に 味わった貧困だったのだろうか。
祖国復帰が1 ヶ月前に迫った昭和47 年4 月 秋田大学に入学。とにかく寒かった。風呂無し 安アパートで、銭湯までは遠い。通うのも大変 だったので風呂に入るのは日曜日だけ。卒後は 中部病院で研修した。体力のみが頼り、体育会 系のノリの過酷な修行である。やはり忙しくて 週に一度しか風呂に入れないことが多々あっ た。都合8 年間ろくに風呂に入れなかったこと になる。でも不思議なことに一度も皮膚病には 罹らなかった。
学生時代、休みに帰省の折々後学の為、桜坂 に足を運んだ。復帰前1 本1 ドルで飲めたビー ルが千円に跳ね上がっていて、タマシヌギタ。 そんな飲み屋で初めて8 トラックのカラオケに 出会い心を奪われ、生涯の友となった。色々な 趣味を遍歴したが40 年もたゆまず継続してい るのはカラオケぐらいだ。
長年温めて来た夢がある。『海を眺める小高 い丘で畑を耕すこと』だ。最近南の地に小さな 土地を求め、夢を叶えた。週末ハルサーをして 野菜作りにはまっている。今流行りのメタボ、 ロコモ、ウツを防ぎ、老後の健康増進に大いに 役立つであろう。
何はともあれ還暦という人生の大きな節目を 迎えた。多くの人に助けられ、どうにかここま でたどり着き感謝に堪えない。これから先、医 師として人間として如何に生くべきか日々煩 悶、模索している。還暦とはいえ赤子のように 無垢にはなれない。天賦の才も時間も限られて いる。『余生はおまけと心得、頑張るけども無 理しない。腹は七分に人生八分、平凡な日常があればそれで十分』それが還暦を迎えた私の原 点である。