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被災地陸前高田の「一本杉」と私と同い年の「辰年の杉林」

小宮一郎

琉球大学医学部附属病院
地域医療システム学講座
小宮 一郎

題名を読んで奇異に感じる会員の方々もおら れると思うが、陸前高田の有名な「一本松」で はなく、「一本杉」の話から始まり、干支の辰 年に因んでの三題噺的な新春干支随筆とさせて いただく。

医師の偏在による地域医療崩壊が進行してい る中、国や県並びに琉球大学では地域医療の再 生に取り組んでおり、医学部医学科では毎年地 域枠入学12 名を受け入れている。彼らの多く は自身の将来や沖縄の医療に対して高い問題意 識を持っており、私たち教員も教えられること が多い。私は彼らの教育にも関与しており、昨 年9 月には東日本大震災被災地の岩手県陸前高 田市を学生と共に実習目的に訪れた。ご自身も 被災された陸前高田病院の石木幹人院長や職員 達が懸命に医療を実践している様子を間近に見 て、さらには被災者の方々との交流を通じて、 彼らの不屈の精神にはとても勇気づけられ、ま だまだ日本は大丈夫であると実感した。

この陸前高田では高田松原の松が一本だけ残 っていたが、この場所から少し内陸に入った荒 れ果てた市街地に、たった一本の杉がテッペン 付近のみに葉を残しながらポツンと立ってい た。その一帯は以前杉林だったとのことで、被 災者の老婦人に伺ったところ、この杉林の近く の交通信号機を超えて遥か高い津波が襲来し、 この方は津波に追われながら必死に逃げたとお っしゃっていた。我々が訪れた時には杉林は一 本を残して跡形もなく、もちろん信号機や家も ない状態であった。以上が陸前高田の「一本 杉」の話である。

杉と言えば、私の郷里の山(山梨県大月市、 リニア実験線のすぐ近く)に私と同年の「辰年 の杉林」がある(はずである)。1952 年の辰年 に祖父の指示で私の誕生を記念して植えたと聞 いているが、実際に私がこれらの杉林を見たの は小学生6 年生頃で(正に辰年)、当時は幹の 太さが15 pほどしかなかったと記憶している。 今年はちょうど樹齢60 年になる訳で、どのく らいの幹の太さになっているのかもわからな い。日本各地の山林の状況と同じく、かなり荒 れた杉林となっていると思われる。

この杉林を妻と共に本年中に是非とも訪れて みたい。下草刈りなどはできるはずもないが、 私と同年の杉林を見るのが今から楽しみであ る。私自身も退職までに枯れることなく、現在 の仕事にベストを尽くせねばと思っている。大 学に在職する以上は学術論文も書かねばならな い。次の辰年までに、あと何篇の学術論文が書 けて、どれだけ社会に貢献できるのだろうか?

最近の医学部の教員動向を見ていると、特に 内科系では、ほとんど学術論文のない方が講師 や准教授に推薦され、すんなりと教授会などを 通過している。私自身も大きなことは言えない が、研究費を使って研究はしているようである が、結果としての英文での学術論文が出ていな い。博士論文には英文で内容の良いものを発表 されているのに、その後が続いていないように思 う。日常臨床に忙しいことは認めるが、学会発 表だけで満足してはいないだろうか?学術論文 で残すことは大学に在籍する医師の最低限の仕 事であり、これが無理なら、地域に出て、沖縄 の医療の為に貢献すべきであろう。私より一回 り・二回り若い48 歳〜 36 歳の年男・年女の 方々は正に論文を量産できる年代であり、是非 とも頑張って欲しい。陸前高田の「一本松」は 昨年暮に枯れてしまったと聞くが、「一本杉」や 私の祖父の植えた「辰年の杉林」は後世に残っ ていく。沖縄発・琉大発の学術論文もまた然り である。あと2 回ぐらいしか年男になれない先輩 からの激励の言葉としたい。