ノーブルメディカルセンター 仲村 宏春
人間60 歳を還暦と云い、本卦返りを祝うも のであるが、沖縄の格言には60 代はニンヨー リ(年弱り)70 代はシチョーリ(月弱り)80 代はヒーヨーリ(日弱り)と云われ昭和初期の 辰年生まれも既に80 を越し、その語源そのも のが現実となって心身共に虫食まれた状態とな った。80 歳を過ぎると次々と今までに親しく 付き合ってきた友の訃報が目につくようになっ て来る。その度毎に吾が人生もそのものかと意 を新たにするこの頃である。
思い起こせば吾々には輝かしい青春などはな く、戦時下の耐乏生活に追われ、その上昭和 20 年には戦争の矢面に立たされ、激戦の戦火 をくぐって来た生き残りであった。
今を去る67 年前、吾等県立第三中学校最後 の在学生は毎日が戦争準備に明け暮れ、昭和 19 年から20 年にかけては学業にいそしむ暇も なく、ペンを鍬やつるはしに変えて伊江島や読 谷山飛行場の建設、山原の山岳戦に備えた陣地 構築や壕掘りに汗を流し緊迫した戦争状態に対 応してきたのである。戦局は次第に身近に迫り 来るようになると、学徒も険しい戦局にまきこ まれ、特に徴兵適齢前の満13 歳から18 歳の若 輩共、それこそ紅顔の純情可憐な少年達が学徒 隊として徴兵され、圧倒的優勢な米軍に戦いを 挑み、悪戦苦闘の末、十数名が郷土防衛の盾と なって、あたら十代の若さで花を散らさざるを 得なくなったのである。
又現役入隊前の学徒は卒業証書を手にする事 もなく現役召集され、学徒出陣して行ったので ある。その大半は沖縄本島南部戦線はもとよ り、遥か彼方の満州や、支那大陸、南方戦線に 派遣されその大半が戦野に散りて、その遺骨の 収集もかなわず、かの地に眠り続けている。
沖縄本島の古戦場をかけ巡ってみれば、その 戦友学友達の顔が次々と目に浮かぶようにな り、激戦の4 月16 日が来る度毎に過ぎし古の 戦場を思い亡き戦友の俤を偲んでいる。
思えば彼の戦友学友達は悠久の大義に生くと 心に秘めて散ったと思うが彼等も今は既に過去 の人となりつつあり、彼等を語るには吾等戦友 学友以外には語れるものは居ないと思い、如何 にして彼等の魂を永遠に残し得るかと呻吟する 毎日でした。同期生会にはいつも逢う度毎にそ れが話題となり、遂に彼等の33 回忌を迎える に当り、彼等の流した若い血潮を吸いとって真 紅に染まったあの戦場に彼等の思いを鎮めるた め、吾等自らの手で鎮魂の碑を建てる事を決意 し碑の建立を決定したのである。
当時本部町の真部山、八重岳は国頭支隊の本 拠であり、最も激しい組織的攻防戦のくり拡げ られた由緒ある地で、学徒隊の殆んどはこの地 で訓練を受け、そして昭和20 年4 月16 日の激 戦には十数名の学友がこの地で散華したのであ る。その意味でこの地は戦争の悲劇の根源とも 云うべき地区であり、この地に彼等戦死者の魂 と吾等生存者の心を結ぶ三中学徒の碑を建てよ うと意を決し、急遽八重岳の桜並木の中腹に三 中学徒の碑を建立し、山野に散った88 名の御 霊の安らかに眠れる殿堂が完成したのである。
毎年6 月23 日の慰霊祭には御遺族の方々や 多くの会員が参列し祭祀が行われている。然し その毎年行われる慰霊祭も漸次会員も一人去り 二人去りで、遺族の方々も参列者は減り先細り となってきた。
このままでは何時迄その祭祀続けられるか吾 等一同の緊急課題として最善の策を講ずべく目 下検討を重ねている所である。