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祖先からの贈りもの余話

瀬尾駿

クリニック絆 瀬尾 駿

県医師会報(平成21 年9 月号)に緑陰随筆 として伊勢国津藩藤堂家と瀬尾家祖先との関係 について投稿した事がございましたが、その続 きでは新春に相応しくないのではと思いつつ も、7 回目の辰年でもありお許し頂きたくお願 い致します。生前の母から瀬尾家は藤堂藩の御 典医であったと口癖のように聞かされておりま したが、何か根拠がある訳でもなく、母の死後 瀬尾氏累世過去牒にある曾祖父の戒名に5 世の 添書があった事などから、曾祖父一族の菩提寺 が三重県津市専琳寺であることもわかり、その 寺に出掛け寺の過去帳の存在を尋ねたのですが なにも判明せず、後ほどわかった事ですが昭和 20 年4 回の米空軍爆撃で津市街は殆んど廃墟と 化したと知り、万事休して諦めておりました。

今年2 月も中頃でしたか、千葉市にお住いの 全く存じ上げない方から封書を頂きました。文 面には「パソコンで藤堂藩の御典医を検索中、 沖縄県医師会報の文章が目にとまり、自分との 共通点があったのでお手紙したが、祖先の一人 が瀬尾瑞庵という方であれば藤堂藩の功臣年表 に載っているとの事。この本は古書で一般書店 では入手できず、三重県郷土資料刊行会に連絡 し残部があれば入手できる」とありました。パ ソコンが普及し空前の情報化時代のお蔭か、こ れも祖先からの贈りものかと、千葉市の方には 厚くお礼申し上げた後早速購入致しました。三 重県郷土資料叢書第86 集として昭和60 年刊行 され、表題は藤堂藩(津・久居)功臣年表・分 限録(松村明編の大辞林に依ると分限帳の解説 として、近世大名の家臣団を対象とし、その一 人一人について藩内における地位・格式・知行 高・所領の内訳などを詳細に記した一種の人名 録だとの事)。編著者は中村勝利氏(明治38 年 津市生れの郷土資料研究家で故人)。内容は天 正4 年(1576 年)から明治2 年(1869 年)の 版籍奉還迄の293 年間(途中資料が失われたの か欠けた年代もありますが)、藤堂藩に功労の あった家臣の姓名と身分・禄高・扶持高の他、 職種・簡単な経歴なども年代順に列記されてお りました。瀬尾家の祖先かも知れぬ人物は、藤 堂高猷公が襲封(諸侯が領地をうけつぐこと) された文政8 年(1825 年)から版籍奉還迄の 44 年間の650 名ばかりの中に医療関係者が纏 められた箇所があり、医師本道(漢方医術では 内科のこと)26 名、次の針医12 名の中に20 人扶持瀬尾瑞庵の名が2 番目に登場、あと外科 6 名、歯医師1 名の名が列記されておりました。 功臣年表には総計3,200 余名の姓名が載ってお りましたが、医療関係者はこの部分だけで他に 瀬尾を名乗る人物はいないからといって、瀬尾 家祖先の一人と判定はできませんが、可能性が 少しでもあるとすれば、5 世である曾祖父の先 代が文化9 年(1812 年)63 歳で亡くなってお り、この男性が4 世瀬尾瑞庵ではないかと思わ れます。瀬尾家の過去牒には32 名の戒名と死 亡年月日・年齢が日にち別に分けられ筆書きさ れておりますが、俗名は記入されておらず、曾 祖父一族の菩提寺に残る過去帳が戦災で焼失し たと思われる今となっては確かめようもありま せん。しかし母の誇りでもあったのではないか と思われる瀬尾家祖先の藤堂家御典医説を少し でも裏付ける史料を入手出来た事は、小生の駄 文を掲載して頂いた沖縄県医師会報係の皆様の お蔭であり厚くお礼申し上げます。又吉報をお 寄せ下さった千葉市在住のお方も小生と同じ目 的で調べておられるご様子ですが、ご幸運を心 から祈りたいと存じます。