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医療支援第15陣報告

玉井修

理事 玉井 修

【医療支援活動撤収へ向けて】

岩手県大槌町城山体育館の避難所における医 療支援も遂に撤収の時期を模索するようになっ ていた。5 月の連休明けには既に地元の医師に よる地域医療が始まり、医療災害支援は元の地 域医療へと円滑に移行させていく時期に差し掛 かっていた。これまで多くの医療人がこの派遣 に参加し、大槌町との強い信頼関係を築いてい た。上手に引いてこなければ、これまで積み上 げてきた絆を無にする事にもなりかねない。私 は5 月23 日に現地に飛ぶつもりであったが、 県医師会からの情報によると5 月21 日で終了 となるかもしれないとの連絡があった。私は岩 手に行けないのか?と不安にもなったが、何故 かしら私は必ず岩手に行く事になるという確信 があった。5 月14 日、現地対策本部との協議 の結果支援活動が5 月末日に終了と決定され、 ついに5 月23 日の出発が決定された。私は正 直嬉しかった、これで岩手に行ける、そのため ならどの様な条件も飲むつもりであった。翌週 5 月16 日に避難所の現状についての説明を受 けた。私に課せられた大きな任務は円滑な撤収 作業であり、避難所住民の信頼を傷つけること なく円滑に業務を移譲する事であった。そのた めに派遣期間は当初の7 日間から10 日間に延 長されたが喜んで承知した。事前説明会の最後 に私は笑顔でお別れを言い、笑顔で無事に沖縄 に帰ってきますとお返事をした。

【岩手大槌町にて】

5 月23 日、那覇空港に初めて家族を見送りに 呼んだ。彼らは私の背中に何を見たのだろう か、それはきっとずっと後になって解るはずだ。 今回の震災支援を決定したのは政治でも官僚で もない、民の発想でリスク覚悟で被災地入りを 決めた。未曾有の災害時に判断するのは個々人 の判断である。誰かが決めてくれる事ではな い。そして今回の撤収に関しても、誰かがもう 良いと言ってくれる事も無い。始まりも終わり も結局は自分たちで決めなくてはならない。

5 月24 日朝に遠野の民宿を出て、被災地釜 石に入る。ニュースなどでは見てはいたが、実 際に来てみるとその光景はあまりに悲惨であ る。震災後2 ヶ月半が経過しようとしているの に、目の前に拡がる現実はまさに地平線の果て まで破壊された日本の街が拡がっていて、徹底 的な破壊の現場なのであった。城山を上り、体 育館の中に入ると少し薄暗い館内の一角に仮設 診療所があった。1 日30 人ほどの受診だが処方 内容が多く複雑な印象を受けた。慢性疾患の患 者がほとんどで、以前は主治医があり、しっか りとフォローされていたはずである。震災で失 われたのは主治医機能であったこともよく理解 できた。仮設診療所の隣にはつくし薬局さんが 併設され、常に笑顔で、謙虚に対応してくれ た。つくし薬局は現地の薬局として地域医療に 貢献していたが、2 店舗を今回の津波によって 失っている。また、薬局長が行方不明となって おりスタッフの受けたダメージはいかほどであ ったか、想像できない。立っていられないほど の揺れを経験した後に自分の生活圏を完璧に破 壊され、城山に逃げてきた時には石油基地の火 災によって火炎地獄と化した大槌の街を眺めて 恐怖と寒さに震えていたという。そんな人たち が今は笑顔で薬局に働いている。私にあの様な 強さと謙虚さがあるだろうか、笑顔で日常生活を送れるだろうか。日々の煩雑な仕事に追われ ながら「私たちは、今、生かされている気がす る」薬局の皆さんはそう言ったのである。日頃 の診療にも慣れた頃、何気に仮設診療所に貼っ てある新聞記事を見た。大槌の避難所生活をし ているご老人の言葉である。「いろいろと不便 な事は沢山あるがそんな事は大した事はない、 今回の震災では多くの方達から大槌は多くの支 援を頂いた、いつかこの国のどこかでこの国の 人たちが困ったときに、大槌の人がその人達を 援助できる日が来るのを見るまでは私は死んで も死にきれない」そう言ってそのご老人は嗚咽 を漏らしたそうである。この地の人たちは私た ちの想像を絶する忍耐力でこの災害に耐え、そ して更にその恩に報う日を夢見ているのであ る。3 時間の漂流のあとに助かったというおば あさんは、若い者には負けないと気丈に言って いた。また、徐脈でふらつきながらも避難所の 階段を自分で下りてきて受診する老婆もいた。 不便で寒い避難所生活の中でも、努めて明るく 振る舞い、気丈に生きていた。そして常に我々 医療チームに対する感謝を忘れないのである。 沖縄では毎日の診療にすり減っていた自分自身 の感情が、大槌でまた潤いを取り戻していくよ うな不思議な感覚があった。この地で僕は医師 としての再生を果たしているようなそんな気が していた。不便な避難所生活の中にも一服の安 らぎや、喜びを経験する瞬間がある。例えば、 山本リンダや加山雄三の訪問があったときなど は避難所の空気が華やいでいくのを感じ、僅か な時間ではあるが辛さを忘れさせてくれた。そ んな訪問の中でも私が忘れられないのは、秋篠 宮様と紀子様のご訪問である。秋篠宮様は非常 に朗らかな印象を受け、紀子様は神々しく感じ られた。

【撤収へ向けての作業】

診療の合間に訪れた現地の診療所、県立病院 は大変混んでおり、道又先生の診療所は民家の 一角を借りて再開しており、民家の廊下が待合 室になっていた。そこでは多くの患者が整然と並び、非常に混み合っていた。県立病院も同じ く大変混んでいた。地域医療は確実に再生を始 めていたのだった。この地に我々沖縄医療チー ムがいるのは地域医療を再生させる事が大きな 目標であった。私たちの医療支援活動は確かな 成果を上げていたのである。避難所における診 療の際には、現地医療機関に誘導するための情 報提供が必須となっていた。そのために現在診 療中の医療機関リストを作成し、パンフレット として受診患者に説明しながら配布した。震災 発生から現地に入り共に協力し合ってきた様々 な機関との調整も大詰めを迎えてきた。5 月30 日からは宮崎市保健師チームとの連絡事項も、 これまで沖縄県が担ってきた役割の一部を引き 渡すための話し合いが行われた。釜石での対策 本部でも我々が撤収後に城山を巡回診療する日 本赤十字社との調整に時間を費やした。特に扱 いが難しかったのがカルテの扱いである。医療 情報としても重要なカルテであるが、今回の震 災における重要な資料となるカルテは今後の大 規模災害時にどの様に対処すべきかを考察する 為にも非常に重要な資料となる。カルテは直ぐ にでも持ち帰り、様々な検証を行いたいところ ではあったが、城山避難所の診療を日赤に円滑 に移行するためには日赤の希望を最優先に考え る必要があった。日赤としてはこのカルテをそ のまま譲り受けたいというのが希望であり、も っともな要望である。様々な折衝により、カル テは釜石市の災害対策本部に預け、対策本部内 の日赤コンテナにおいて厳重に管理し、日赤に よる医療支援が峠を越えて必要がなくなった時 に対策本部が責任を持って沖縄県医師会に返却 することが合意された。

撤収へ向けて様々な状況が整う中、思わぬ事 態も発生した。城山体育館の仮設診療所のスペ ースは我々が撤収後子供たちのプレイルームと しての使用が検討されているという事実を掴 み、早速施設担当の方と調整を行った。日赤の 円滑な巡回診療を継続するためにも重要な拠点 となる仮設診療所の場所を継続して医療用とし て使用できるように施設との調整を行った。妥協案としてキッズルームと医療ルームをパーテ ーションで区切って共用するという案もあった が、インフルエンザをはじめとした感染症を扱 う部屋と子供が自由に遊ぶ場所を共有するとい う事は避けるべきと考えた。かくして最終的に は継続使用が認められ、日赤やつくし薬局も継 続して医療関連の施設エリアとして利用できる 事となった。

2 ヶ月半に及ぶ仮設診療所の運用により、物資 は非常に多くなり、これを持ち帰る作業も大変 な仕事であった。現地で廃棄処分するもの、持 ち帰るべきもの、重要な資料として大切に保管 すべきものを選り分けて段ボールに箱詰めした。

【お別れの日】

5 月31 日最終日、朝から快晴であった。雑 多であった仮設診療所の内部も3 回に分けて全 てを沖縄に配送し、綺麗さっぱりもとの状態と なった。午前中はこれまで通りの診療を行い、 お昼には体育館の全館放送、1 階体育館、武道 場で最後のご挨拶をした。今後日赤が週4 回の 訪問診療という形で入る事を説明し、沖縄の医 療チームが大槌を去っていく事をご報告した。 (写真1)期せずに起こった拍手とありがとうご ざいましたの言葉に、熱いものがこみ上げ、上 手なお別れの挨拶が出来なかった。午後の4 時 になりいよいよ我々は城山体育館と最後のお別 れの時間となった。最後に託されたビニールシ ートいっぱいに書かれた寄せ書きに思わず、胸 がいっぱいになる。(写真2)我々も後を託す形 となった宮崎市保健師チームとつくし薬局の皆 さんに寄せ書きを贈った。ここで一緒に頑張っ た日々を忘れる事は生涯あり得ない。(写真3) 城山避難所を去るときに多くの方が見送りに出 て来て頂いた。生きている内にもう一度会いた いねと言い涙を流すおばあさん。あれほど多く の人に見送られ、感謝されて見送られた経験は 私は今までに一度もない。

写真1)

写真1)避難所での説明会、期せずして起きた大きな拍手と 「ありがとうございました」の声に言葉が詰まりました。

写真2)

写真2)ビニールシートに書かれた住民の皆さんからの寄せ 書き。最重要書類として厳重に持ち帰りました。

写真3)

写真3)最終日、時刻は診療終了の午後4 時を過ぎて。つくし 薬局さんと記念撮影