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第112回沖縄県医師会医学会総会特別講演
〜人間的な良い医療を目指してプライマリ・ケアこそ医学の本道〜

去る6 月12 月(日)、本会館に於いて開催いたしました第112 回沖縄県医師会医 学会総会につきましては、会報9 月号にて報告したところでありますが、当総会の 特別講演は、本邦の実地医家の第一人者である永井友二郎先生に大変素晴らしい内容 のご講演をいただきましたので、医学会当日に講演をお聞きになれなかった先生方に も、是非ご一読いただきたく、講演内容を以下のとおり掲載致します。

永井友二郎

実地医家のための会 永井友二郎

皆様は太平洋戦争のとき、大変きびしい体験 をされました。あの艦砲射撃をうけるこわさ は、この世のものではなかったと思います。

また戦争の後も、日本全体のために大きな犠 牲を払い続けておられます。

この皆様の前に立って、私が今なんとかお話 ができますのは、私がこの戦争で九死に一生を 得た人間だからであります。

私は昭和16 年12 月、太平洋戦争がはじまっ たとき、千葉大学を卒業し、海軍に入り、軍医 中尉となりました。そして、直前まで平凡な学 生であったものが、翌年6 月には1 万トンの巡 洋艦にのって、ミッドウェー海戦に出ました。 当時、すべての成り行きが急であり、私が医者 となってはじめての経験が負け戦の軍艦の中で 100 名を超す、全身熱傷の黒ん坊のような水兵 たちの治療をしていました。

私はこのミッドウェー海戦のあと、ガダルカ ナル島の攻防戦、キスカ島の撤収作戦、マキ ン・タラワ島の玉碎戦などに参加しました。こ れらはすべて負け戦で、私の乗っていた軍艦に 爆弾が当ったことが3 回、沈没したことが2 回、 その一度は私自身が負傷して意識を失いました。

また、潜水艦に1 年乗っていましたが、その 昭和18 年10 月、マキン島の沖で、米空母リス カムベイを撃沈しましたので、その後7 時間、 アメリカの駆逐艦の爆露攻撃をうけました。こ の時の怖さ恐ろしさは、死刑台で死を待たされ ているようで、私の生涯で最も恐ろしい怖さで ありました。幸いに、私はこの戦争で、ついに 命を永らえ、復員し、昭和20 年12 月から、千 葉大学第二内科の堂野前維摩郷教授の下で医師 としての勉強のやり直しをいたしました。

この堂野前教授は、学問的にも人間的にも大 変優れた先生で、日頃から私たちに、「内科と いうものは、病人を人間として総合的に、全人 的にみる科であり、それだから、内科は医学全 体の中心なのです」と教えて下さいました。

私が昭和38 年に実地医家のための会をつく り、50 年以上プライマリ・ケアの道を歩んで きたそのもとは、この堂野前教授の教えによっ ていると思っております。

ところで、現在のわが国の医学界の現状をみ てみますと、大学の医学部と日本医学会を頂点 としたピラミッドの体制、学者と専門医上位の 体制が永年つづいております。そして社会一般もそれを認め、ひたすら医学の進歩を期待して いる状況があります。

この科学としての医学、先端医学は医療の大 切な部分であり、大変重要ですが、その歴史は そんなに古いものではありません。

ウィリアム・ハーベイの血液循環発見からま だ400 年ほどで、これに比べますと、病人を人 間として、その生活のなかでみていく人間的医 療は人類の誕生以来ありました。原始的であっ たでしょうが、病人を休ませ、労り、水を飲ま せ、冷やしたりしたこの病人中心の医療は人類 の歴史と同じ400 万年前からあった訳であり ます。

このことをわざわざ申し上げましたのは、医 療のもっとも大切な本質が「病人のため、病人 中心」ということを歴史が示しているからであ ります。

現在のわが国の医学界ですが、これは明治政 府がドイツ医学を導入して以来、大学と学会を 中心として、医学中心、医者中心で進められ、 「病人中心」という本質を失って、今日に至っ ております。

そしてこの日本の医学界に、病人中心の全人 的医療を目指す「日本プライマリ・ケア学会」 が誕生しても、日本医学会は永年これを分科会 の1 つとして認めることを拒んできました。

ただ、昨年プライマリ・ケアを目指す3 学会 が合同し、日本プライマリ・ケア連合学会がで きたことから、本年2 月この学会の日本医学会 への加盟が認められるに至りました。大きい前 進であります。

現代の医学界が抱える矛盾

さて、はじめに申し上げましたように、現在 の日本の医学界はもっぱら科学としての医学、 先端医学を目指しておりまして、医療の最も大 切な本質、「病人中心」ということを欠いてお ります。このことについて、有名な川喜田愛郎 教授は次のように述べておられます。

「医学は今日、大変進歩したもののように受 けとられているが、それは決して完成したものでなく、開発の途中にあり、どぎつい表現をす れば、医者はいつも、病人に欠陥商品を売りつ づけている。しかも、医者はこのことをやめる わけにいかず、これを生涯続ける義務さえある」

この川喜田教授のことばは厳しいものです が、これは現実であります。

すなわち、我々は医療の中にいつも予期しな いことや医療事故が起る危険をはらんでいるこ とを忘れてはなりません。

それで、この先端医学で欠けているもの、そ の不安に対し、これを補い支えるものがなけれ ばならない訳で、この重い役割りを持つ「人間 的医療」プライマリ・ケアを建設すべく、われ われは今日まで進んできました。本日はこのこ とについてお話いたしますが、この内容こそ が、欠陥商品である先端医学を支える医学の本 道、柱であります。

わが国プライマリ・ケアの生い立ち

それで、わが国におけるこのプライマリ・ケ アの生い立ち、「実地医家のための会」創立の 経緯を少しお話してみます。

私は、復員後、千葉大学の第二内科、堂野前 教授の教えを受け、病院勤務を経て、昭和32 年、東京の三鷹市で内科の小さな医院を開業し ました。開業医になって、これまでの大学病 院、公立病院にいた時と全く違う医療があるこ とに驚きました。開業医のところにはいろいろ な病人が来て、病気の種類が多く、重い病気も 軽い病気も、たった今起ったばかりの初期の病 人もおり、私ははじめて病気の全体像をみた思 いがしました。

また患者さんは親しくなるといろいろな相談 ごと、些細な相談まで持ちこんできます。

私はこうして、大学や大病院では扱うことの ない医療の世界を発見して驚きました。そして 私は、開業医の方が大学や病院の医師たちより も、本当の医療、医療の全体像をみているとい う思いを強くしました。

昭和30 年代当時は、開業医はまだ研究会も 学会もなく、ひとりひとりが自分の臨床経験だけを頼りに診療していました。それで私は親し くなった友人に次のことを訴えてみました。 「自分たち開業医には独自の領域があると思う。 それで、われわれが抱えるいろいろな問題につ いて発表しあう場を是非つくりたい。はじめは 研究会でいいが、未来はぜひ学会を作りたい」 と申し出ました。

そうして昭和38 年2 月、私の提言で4 人の 先生が集まり、まず研究会を作ることを決め、 その綱領は次のようでありました。

「医師は人間を部分としてではなく全体とし て、生物としてでなく社会生活をしている人間 としてみてゆかなければならない。また、医学 が専門化・細分化を強めていく中、病人は納得 のいく説明を聞き難くなり、これが放置された ままである。われわれ医師は、これを是非あら ためてゆかなければならない」というものであ りました。

当時、日本医師会の会長は武見太郎先生でし たが、私のような40 歳を少し過ぎただけ、開 業医としてもかけだしが言い出したことに対し て、これを無視するのでなく、むしろ大事に見 ていて下さいました。

またもう一人偉い方がおられます。昔、東京 の清瀬に国立東京診療所という結核の大きな診 療所がありました。ここの所長であった砂原茂 一先生は、私が川喜田愛郎先生と同様に尊敬し てやまない方です。この砂原先生は常々、次の ように言っておられました。「医師はいつも、自 分になにができ、なにをすべきか、考えている 必要がある。病人にたいして、有害なことはせ ず、無駄なこともしない、そしていつも、最大 の利益にあった治療だけをしている、そういう 自信をもてる臨床家は果たしているだろうか。

そしてスモンやサリドマイドの歴史が示すよ うに、医学はあくまで不完全な知識の体系で ある。医師はこの視点に立ち、先端医学の進 歩だけを追うのでなく、人間のもつ自然治癒 力を大切に考え、同時に、病人の人間という ものを考える、そういう良い医療を基本とすべ きである。」

それで、我々の意識がとかく先端医学に向か いがちの中で、人間的な良い医療を実現する上 で、是非必要な事柄についてお話したいと思い ます。

次の三つの大きな話をいたします。その第一 の柱は「「人間の自然治癒力」をできるだけ大 事にすること」、第二の柱は「医療におけるこ とば」です。私たちは「ことば」というものを 普段、ごく自然に使っていて、その重要性を忘 れていますが、医療は「ことば」なくしては成 り立たず、「ことば」こそ医療の基本の方法論 であります。

それから第三の柱は病人の基本的人権を大切 にする「医療における法と倫理。医事法学」で あります。

私は、病人のいのちにかかわる医療を支える ものは、以上のように先端医学だけでなく、こ の三つの柱が是非必要だと考えています。そし てこの三つの柱全体の背景に、人類文化のすべ て、歴史学、文学、心理学、その他があると考 えています。

自然治癒力

まず自然治癒力についてお話いたしますが、 はじめに私の体験をひとつ申し上げてみます。

それは太平洋戦争中のことで、私が海軍軍医 大尉で、南洋のトラック島の軍艦におりました とき、水兵の一人が急性虫垂炎になりました。 この軍艦の軍医は軍医長が東大の外科出身の方 でしたので、この軍医長が執刀、私が向きあっ て助手をつとめて手術をしました。この手術が 無事に終ったあと、軍医長が、腹膜と筋肉層の 縫合が良くなかったと言って、翌日縫合のやり 直しをしました。

その日、私はまた軍医長と向き合って、縫合 した皮膚の結紮糸を切っていきました。それ は、手術してまだ24 時間もたっていなかった 時で、私は糸を切れば皮膚は容易に開くだろう と思っていましたところ、驚いたことに皮膚は 肉芽でつよく癒合していて、指で左右に広げよ うとしても、容易に開きませんでした。仕方なくメスを入れて、やっと左右に開くことができ ました。

私はこのとき、生れてはじめて人間のからだ の自然治癒力の大きさ、強さをしみじみと知ら された思いがしました。そしてこの自然治癒力 は外科手術の場合だけでなく、あらゆるからだ の修復、治癒機転の柱であり、その力はたいへ ん大きいものだということを感じたのでありま した。

ことばと医療

さて、次に「医療におけることば」につい て、少し丁寧にお話したいと思います。

私がこの「ことば」の重要性に気付きました のは、昭和38 年、「実地医家のための会」を発 足させたときでした。この「実地医家のための 会」出発のとき、私の高等学校からの親しい友 人、平井信義先生が、小児科医としてこころの 発達の研究をしており、「実地医家のための会」 を発足させるなら、最初に患者さんとの対話、 「ことばの勉強」からはじめると良いといって、 カウンセリングの手法による「ことばの学習」 を私たちに叩き込んでくれました。

私はこの講義を受けた時、果たして「こと ば」だけで、どれだけの治療効果をあげられる かと疑問に思っていました。しかし、いろいろ カウンセリングの実際を見聞していくうちに、 ほほう、そうかと思うようになり、医療そのも のに対する考え方も大きく変わってきました。

私はその当時まで、医師は大学で教わった医 学を応用し、診断し、その病名に合った治療を すれば治るものだと考え、また医者は病人より 偉い立場で、病人を治してやるものだと考えて いましたが、それが平井先生の講義を聴き、実 例を聞いているうちに、私は自分の考えが次第 に大きくかわっていくことに気がつきました。

私はまず、医者である自分が病人よりも上だ という考えを改め、そして患者さんと対等の立 場でことばをかわすようになりました。そして 次に、病人とよく「ことば」をかわすことによ って、病人が次第にこころを開くようになり、それだけでも病人の不安が減るらしいことを知 りました。そして病人とゆっくり話しをするこ とで自然によくなる病気がある、ことばをかわ すだけで治る病気があることを知りました。私 はこのようにして、「ことば」による病人の人 間理解こそ、医療の原点であることをはじめて 知ったのであります。

すなわち、人間のわずらいは元々、それぞれ の人の固有の生い立ちと生活に深く結びついた もので、その人がどういう人生を生きたいと考 えているかに深く関わるものです。人間が病気 になって、何に困り、何に苦しむか、何を求め るかは、ひとりひとりその内容が違うのが普通 で、その違いはその病人にとって大きい意味が あります。

そして、この千差万別の病人のわずらいで、 病人が求めているものを医師に伝えるのも、ま た医師の側から、これをよくききとり、あるい は医師の考えを伝えるのも、すべて医師と患者 との対話、「ことば」以外の何ものでもないの であります。

この意味から、医療は「ことば」で始まり、 「ことば」で終わるといってよいということが できます。

それで、現代医学がいかに進歩しても、医療 を提供するわれわれ医師が、病人が求めている 事柄を理解できなくては病人を苦しませ、悲し ませることになります。この意味で、これから の良い医療は、病人中心の医療であり、「こと ば」はあらゆる先端医学にも優る、不可欠の方 法論であります。

ここで、「ことば」について少し立ち入って 検討してみたいと思います。まず、「ことば」 というものが人間の生活のなかでどんな意味、 どんな力をもっているか考えてみますと、第一 は、「ことば」なくしては、人間は考えること も社会生活をすることもできない。ものごとを 分析し、思索し、判断し、自分の考えを明らか にできるのは「ことば」によってです。

第二には、相手の人間がどんな人であるか、 を判断するとき、その判断材料はほとんどが相手の人の「ことば」である。

第三には、以上のほかに人間の生活、文化の 多くのもの、宗教、哲学、文学、自然科学も医 学もこの「ことば」によって支えられ、育てら れてきたということがあります。

このように、「ことば」はわれわれ人間にと って、もっとも大切な生活基盤でありますが、 これは乳児のときの「かたこと」ではじまり、 その後、自然に身についてきた、あまりにも日 常的で、身近であったため、われわれは「こと ば」というものの重要性に気づかずにまいりま した。

そのようななかで、私たちは昭和38 年、「実 地医家のための会」を発足させました時、われ われは、人間中心、病人中心の良い医療のため には、ほかのなによりも、医師と患者との「こ とば」のとりかわしが大事だと、その学習に励 んだ訳であります。

その内容を申し上げますと、それはカウンセ リングの技法にもとづいた病人との面接法で、 いま、多くの書物に「患者の面接技法」として 書かれているものでした。その詳細は多くの書 物に譲り、私はこの学習で掴むことができた3 つの大事な事柄についてお話したいと思います。

その第一は、どの患者さんに対しても、その 人間に興味をもつようにして、本腰を入れて話 をきき、話をする。そして、ときには無駄のよ うにみえても雑談を交えるほどの気持ちで、患 者さんに接することが大事で有効であります。

第二には、ものごと、あるいは人間を理解す る上で、その生い立ちの歴史をよく調べること が大事で、有効だということです。病人の人間 を知る上で、その人の生い立ちの歴史をよくき くことが大変有効であることを経験します。

それから、ものごとには「全体と部分」とい う関係がありますから、この視点に立って病人 の話をきくと良いということがあります。病人 が私たちに訴えてきていることは通常、大変大 事な部分でありますが、それは全体でない場合 が多い。それで我々は病人の抱えている問題の 全体は何か、病人を全体として理解し、問題を 解決するために、「もっと困っていること、も っとお話しになりたいことはありませんか」と よく聞いてゆくことが有効であります。

それから第三に大事なことは、「ことば」は ただ丁寧に使っていればいいのでなく、相手の 人によくわかるように、わかり易いことばを使 う工夫が必要で、有効であります。

一例をあげてみますと、司馬遼太郎さんはあ る講演で次のような話をされました。「吉田松 陰という人は堅物で怖い人かと思っていたとこ ろ、岩波書店から出ている吉田松陰全集の12 巻をずっと読んでいくうちに、まず松陰の文章 のうまさにびっくりした。古今の名文家です ね。それで、だんだん読んでいくにしたがっ て、これは単に文才だけ、才能だけの問題でな いことがわかってきた。松陰の文章のうまさの もとに、松陰の心の優しさがあることがわかっ てきた。自分の考えを人に伝えるために、やさ しく、わかり易い文章を書いた。吉田松陰全集 を読んでいくと、このことがよくわかります」 とありました。

このやさしさ、愛情といってもいいと思いま すが、この「やさしさ」について、私の尊敬す る国立小児病院長だった小林登先生は「やさし さを科学する」という論文を書いておられま す。それによると、子どもの発育における母親 の愛情、やさしさは、からだの発達・成長だけ でなく、知能の発達の上でも、正常に発達させ る力をもっている。さらに、感染症をおこす頻 度を減少させ、感染症による死亡率を減らすと 述べています。

即ち、やさしさは医療において具体的に力が あることが証明できるということであります。

医療における法と倫理

「実地医家のための会」を発足させて10 年 目の昭和48 年に、当時の厚生省から「医事紛 争研究班」の委員を命ぜられました。

私はそれまで、医療と法律の関係は全く無知 でありましたが、私はこの委員会で毎月1 回、 法学者たちと3 年間、医療事故や医事紛争の勉強をして、医療の大切な一面を知ることができ ました。

この委員会の委員長は、さきにお話した砂原 茂一先生で、その委員には法学者の唄孝一先 生というわが国の医事法学の生みの親がおられ ました。私はこの唄教授から、目からうろこが 落ちるような大事なことを多く教えられたこと を有難く思っています。それで、本日はこの唄 教授から学んだ事柄についてお話しようと思い ます。

はじめ私はこの委員会で、法学者や役人たち の論議をきいていて、同じ医療に対して、その 見方が全く違うことにまずびっくりしました。

私は以前から、法律家や裁判官たちは六法全 書や過去の判例を拠り所として、有罪、無罪を 決め、ときには死刑さえ宣告する、切れ味のす るどい、こわい人達だと思ってきました。

それで、この法律家たちがどんな方法で、こ の危険な仕事をしているのか、その議論の進め 方を注意してみてきましたところ、唄教授は特 にそうでしたが、法律家たちは議論の進め方が 大変緻密で、こんなにも細かいことばの使い方 をするのかと思ったほどで、私は法律家や裁判 官たちの大事な方法論が「ことば」であったこ とを初めて知ったのであります。

そして私が、この委員会で次に驚いたこと は、それまで医療は人道的な善意に基づいた行 為と考えていたものが、次のように根底から覆 されたことであります。

法律家たちは、医療を次のように認識してい ました。

「医師がおこなう診療行為は、投薬から外科 手術に至るまで、外形的には患者の身体にたい する侵襲的行為であり、身体の安全性を害する 行為である。したがって、刑法204 条のいわゆ る傷害に該当し、また、民法上からは身体権の 侵害にあたる。このような診療行為が医師にの み、とくに許されるためには、次の三つの条件 が必要である」としている。

1.診療行為が診療の目的をもっていること。
2.その手段、方法が、当時の医療水準からみ て妥当であること。
3.診療の目的、および予想される結果につい て、医師から患者に十分な説明があり、患者 本人の承諾があること。

ということでした。私は大変驚きました。

また、私が唄教授から教えられた次の事柄 も、私の心に深く焼きつくことでありました。

「病人はいつも、そのかけがえのないいのち とからだを医師に預け、やり直しのきかない医 療を医師に託している。そして医学が大きく進 歩したといっても、あくまで不完全な知識の体 系であり、医療にはしばしば予期しないことや 医療事故がおこる。

そして医師たちは、この不完全な医学のもと で広く世間に対し、病人への献身を誓ったもの であることを忘れないでほしい」と。そして唄 教授はさらに、「医療をうけるものは、いつも 泣く覚悟を要する。泣かねばならぬ危険を覚悟 で医療をもとめざるを得ない。これは医療の悲 しい宿命である。しかしこのことは、患者にの み悲しみを忍ばしめるものではない。

医師は医療の怖さを銘記し、患者が泣き叫ぶ 以外に救いがない運命のなかで、医療を托して いることを知っていてほしい。医師は患者が、 からだを傷つけられ、あるいは家族を失った場 合、泣くことをも忍ばしめるだけの誠実さ、真 剣さで医療を行ってほしい。

医療の原点はまさにここに在り、不幸にして 医療事故が生じたときは、医師はこの患者に対 し、また、患者側の人々に対しこの事故が生じ た所以について十分な説明をしてほしい。

そのとき、医師の側にもこの医療事故による 大きな驚きと衝撃があるはずである。この医師 の驚きと衝撃が患者側に伝わらない場合、患者 側にいたずらに悲しみを大きくさせ、また過剰 な苛立ちを、怒りをもたせることになる」と唄 教授は述べています。

私は以上のことを唄幸一教授から教えられ、 医療事故の実態がどうなっているか、是非知り たく思いました。それで、私は「実地医家のた めの会」の会員に事情をよく説明し、昭和51年と、平成3 年の2 回、医療事故の実態調査を いたしました。

医療事故の実態調査

このような医療事故の実体調査は、会員相互 の信頼関係がないと行ない得ないものですが、 幸い私たち「実地医家のための会」は、共通の 使命観で結ばれていましたので、大変自然にこ の調査を行うことができました。

昭和51 年と、平成3 年の2 回の調査をまと めてみますと次のようになります。

調査にこたえてくれた医師が161 名、そして 報告された医療事故が165 件で、そのうち裁判 になったものが8 件、死亡事故が42 件ありま した。

詳しい内容は省きますが、われわれ医師はひ とり平均1 件の医療事故を経験しており、4 人 に1 人は死亡事故を抱えていたという結果であ りました。

この場合の医師と患者関係についてみます と、不満或いはクレームを申し出たものが165 件中50 件、約3 分の1 でした。この患者の不 満やクレームから医事紛争になったものが10 件、信頼を失ったものが23 件、説明で納得し たものが53 件、そして全体の半数が不信を残 し、その医師から去っていきました。

また、医師が自分では過失なしと考えている 場合でも表面に出た争い或いは裁判になったも のが8 件ありました。

このように、医療事故は患者にとっては命が けの、また医師にとっても大変厳しいことです ので、私はこの医療事故をプライマリ・ケアの 大きなテーマとして、正面から取り上げるべき と考え、昭和56 年の日本プライマリ・ケア学 会において「医療事故を日常診療の一部へ」と いう演題を出しました。

その内容は、今申し上げた調査結果に基づ き、医療事故を診療上の例外と扱うのではな く、日常診療の大切な一部として、積極的に取 組むべきことを述べ、さらに地域医療システム の一翼として、患者が日常診療の中での不満や 疑問を持ちこむことのできる医療相談所を設け るべきことを提言しました。

家庭医実習

最後に、「医学生の家庭医実習」について申 し上げます。

「人間的な良い医療を目指してプライマリ・ケアこそ医学の本道」
実地医科のための会 永井友二郎

私はこのようにして、「実地医家のための会」 をつくって約50 年、「人間の医学」と取組んで きましたが、昭和61 年、東京慈恵会医科大学 の学長、阿部正和先生から次のことを依頼され ました。このことは医療の本質にかかわる大変 大きな事柄であります。

阿部正和学長は私に、是非この話を聞いて欲 しいと次のように話されました。

「私たちは大学で、学生たちに医学の原理と 先端医学は教えることができますが、ほんとう の在るべき医療というものは教えることができ ません。どうか、先生がた開業医のところで、 本当の医療というものを学生たちに見せてやっ てください。」と。それからもう20 年になりま すが、慈恵会医科大学ではこの学生たちに対す る家庭医実習を現在まで続けています。

そして、その具体的成果は、毎回の学生たち のレポートに次のように示されておりますが、 今年の5 年生の学生のレポートに次のようなも のがあります。

「今度の家庭医実習では、医師と患者の信頼 関係を築く診療、患者が満足する診療を見せて もらった。また、往診、訪問診療というもの は、患者との信頼関係のできた開業医にしかで きないことを教えられた。そして、自分が病人 だったらどうしてほしいか、ということを最優 先して診療している先生の姿をみて、医師の在 るべき姿を強く教えられた」とありました。

家庭医実習はこのように、医学医療の本質理 解に大きく貢献するものであります。

おわりに

以上、本日は「人間的な良い医療をめざし て」の題で、多くの事柄をお話してきました。

現代医学は大きく進歩しておりますが、全体 としてはまだまだ開発の途中、不完全な知識の 体系で、常に医療事故や予期しないことが起る 危険をはらんでいます。

それで、われわれ医師は病人のかけがえのな い命とからだに対し、やり直しのきかない侵襲 を加える訳ですから、先端医学だけでなく、本 日お話した基本の事柄を十分生かしてゆく必要 があります。

すなわち、全ての病気が治っていくその基本 は、人間のからだがもつ自然治癒力によるもの であること、現代医学はこれを支えるものとし て十分活用すること、そして、医療においては 常にやさしい思いやりの心で、「ことば」を丁 寧に使い、病人の人間理解につとめる。また、 「病人の基本的人権、そしていのちにたいする 畏敬の心」を大切にし、法と倫理の心構えをも つことが大事であります。

私たち実地医家のための会ではこの医学の大 切な本道について、過去50 年学んでまいりま した。

そしてその学会、日本プライマリ・ケア連合 学会は今年2 月、ようやく日本医学会の中の一 つの学会として認められることになりました。

私はこのプライマリ・ケア、人間的な良い医 療は日本医学会全体の大黒柱でなければならな いと考えています。

それで私は、私の論文集に「医学の本道、プ ライマリ・ケア」という題もつけまして、日本 医学会会長の高久史麿先生に差し上げ、新入り の日本プライマリ・ケア連合学会を日本医学会 の中の大事な学会として扱って下さるようお願 いしました。

これに対し、高久先生は私に、「このことは永 井先生の先見の明です」とご返事下さいました。

もっぱら大学や学会の中枢におられた先生か ら、たいへん理解のあることばをいただいた、 と思っております。

そしていま、わが国は東北の大震災、原子力 災害という大きな国難の中にいます。

この問題は、人類が科学とどう向き合ってい ったらよいかを問われていることであります。

かつて、原子物理学の湯川秀樹博士が次のよ うに国民に警告したことがあります。それは 「科学というものは、本来科学者の知的衝動に よって進んで止まない性格がある。一例として 原子爆弾が示すように、人類は科学、サイエン スに対し、常に人間性にもとづく制御、ブレー キをかけていく必要がある」というものです。

この言葉は、いま日本人に特に強く問いかけ るものであります。私がお話いたしましたすべ ての事柄は、科学としての医学、先端医学に対 するブレーキであり、本来在るべき医療への復 活、医療のルネッサンス活動であります。

私たちは過去50 年、ひたすらこの道を歩き、 これを若木にまで育ててきました。

この若木、日本プライマリ・ケア連合学会が 日本医学会全体の屋体骨になるには、まだ多く の年月を要すると思います。しかし、矛盾はか ならず歴史が修正しますから、われわれは医学 の正しい在り方に向けて、皆様とともにこの道 を進みたいと考えています。