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ふるさとに想う

原信一郎

海邦病院内科・心療内科 原 信一郎

本拙文は、東日本大震災後の復旧・復興に努 力されている多くの方々の支援活動に感銘を受 けながら書いているものです。被災にあわれた 皆様に心よりお見舞い申し上げるとともに、犠 牲になられた方々のご冥福をお祈りし、ご遺族 の皆様に深くお悔やみを申し上げます。また、 県医師会、日本赤十字社県支部、県臨床心理士 会などから派遣され被災地に赴き支援活動を行 ってこられた方々に対してあらためて敬意を表 したいと思います。

連日の報道やニュースを見聞きするたびに、 被災にあわれた方々からは“行方がわからない 肉親を探し、そして故郷に戻り普通の毎日を送 りたい”という悲痛な叫びが発せられていま す。そして、この思いがあるから心身ともに疲 弊しきっていながら、一秒、一分、一時間、一 日を過ごされているように感じられます。この 叫びが必ず叶うよう願っています。また何らか の力になりたいとも思っています。

私は、昨年9 月に22 年ぶりに帰郷しました。 被災にあわれた方々の望郷の念に思いをかさね ながら“ふるさと”への想いを述べてみたいと 思います。

“ふるさと”を語るには多くのキーワードが あるかと思います。まず地図がいらない場所・ 町のことでしょう。石垣で生まれ1 歳を迎えて すぐ那覇に引越しました。わが家は、牧志1 丁 目798 番地。木造二階建ての当時としては立派な建物でした。さまざまな用事で帰郷するとき には、必ずその辺りを徘徊します。「旧山形屋 の向かいの小道を歩き下っていくと、左手には 藤原産婦人科、右にはお墓と小さな森があり、 一年中遊んだ原っぱに出て」とイメージしなが ら歩き始めます。歩きながら一銭町屋のおば ぁ、ねーねー、かばん屋のおばさん、にーにー 達に思いを馳せ、“節子鮮魚店”の前に来ると 足が止まります。そうです。そこは、わが家が 建っていた場所で、お魚屋さんとして受け継が れている所なのです。となりのてんぷら屋を左 手に見ながら右折して公設市場に近づいていく と左の角は屋嘉比商店があったところです。 TV 放送が始まった時期には老若男女を問わず ご近所の憩いの場所になっていました(1 年後 輩の屋嘉比康治君は、東大医学部に進まれ、埼 玉医科大学の教授になられています)。右の角 には末広菓子店が現存しており、和菓子が好き だった父の使いで、やぶれまんじゅう、羊羹、 カステラなどをよく買いに行きました。

旧屋嘉比商店の向かいには市場の野菜売り場 に通じる路地があり、長年てんぷらの匂いをぷ んぷん飛ばしながら営業していたウチナーてん ぷら屋さんがありました。今は、奥に移動して います。魚てんぷらとサーターアンダギーがと ても美味しいお店です。必ずシーブンしてくれ ます。そして数え切れないほど見慣れている魚 売り場や肉売り場も通りすぎることはできませ ん。懐かしい人はいないかなと思いながら1 周 します。建物を出ると、もやしのひげを取った り、いんげん豆のすじを取ったりしている“お ばぁ達”の仕草が目に入ってきます。小柄で皺 くちゃな顔と豪快な笑い声には、時代の流れを 生きてきた逞しさが感じられます。かまぼこ屋 の傍を通り、人一人がやっと通れる路地を抜け ると国際通りにでます。向かいには“大湾洋服 店”が変わらずたたずんでいます。

筆を進めていくうちに気づきました。“ふる さと”を想うキーワードには、匂い、逞しさ、 温もり、などもあるでしょうか。“節子鮮魚店” の前に立つと「茶碗蒸し」の匂いがしてくる気 がします。私は、小学校から高校までずっと野 球をしていました。小さくて体力のない私に、 母は、どんぶり一杯の茶碗蒸しを作ってくれま した。それから毎日一本リポビタンD を飲まさ れていました。料理の上手な母でした。当時で は珍しい「茶碗蒸し」や「お雑煮」など大変美 味しく食べたものです。また母は、洋裁職人で あった父が創った婦人服の既製品を平和通や新 天地市場などの小さなお店で売る仕事にも就い ていました。逞しい母でした。

てんぷらの匂い、野菜や魚や肉の匂い、かま ぼこの匂い、茶碗蒸しの匂い、それを作ってい る人々の匂い、匂いを運ぶ風の匂い、海から運 ばれる塩風の匂い、そして母の匂い。“ふるさ と”を感じます。福井県丸岡町文化振興事業団 が主催している「日本一短い手紙、“ふるさと” を想う」の中に「母さんが留守で、里帰りした 気がしない。“ふるさと”って、母さんのこと だったんだ。」という手紙があります。大変気 に入っています。母の13 回忌も過ぎましたが、 しっくり感じます。

国際通りを少し歩いて旧山形屋の傍を市場と は逆方向に歩きパラダイス通りに出て左折する とまもなく安木屋の裏手から一銀通りが見えて きて、母校久茂地小学校が目にはいってきま す。「南にたてる城岳、西を流るる久茂地川、、」 の校歌が自然にでてきます。周囲を一周すると 次は「梯梧に映ゆるうるま島、珊瑚の花の咲く ところ、、」の那覇中学に足が向かいます。また 一周したら、「世紀の嵐ふきすさび、故山の草 木貌変え、、」の那覇高校に向かうのです。そこ で徘徊は終点になります。しばし野球部の後輩 達の練習を眺めています。

帰郷して早速“模合仲間”に入れてもらって います。幼い頃から60 歳を過ぎた今でも、“ふ るさと”の友人・先輩・恩師の“温もり”を感 じています。帰郷して、“ふるさと”に寄せる あふれる想いを感じることができましたが、一 方で、変化しながら失われていく大切な想いも あるような気がします。

さて、ここからは私の医者としての“ふるさ と”について書いてみたいと思います。

昭和44 年、国費留学生として東京医科歯科 大学医学進学課程に入学しました。東京大学の 入試がない年でした。早速野球部に入部しまし た。幼い頃から野球に親しんできた私にとっ て、野球のレベルははるかに凌駕していました が、勉学の面では、本来東京大学に入るべき学 生達だったこともあったのか、はるかに劣って いました。ともあれ那覇高校時代4 番、ショー ト原君、とアナウンスされていた私は、医科歯 科大学でも一年生から4 番、投手原君でした。 一年先輩に“がんばらない”と言って頑張って しまう鎌田實先生がおられました。捕手でし た。野球部ではないのですが二年先輩には、日 本心療内科学会副理事長の山岡先生(九段坂病 院副院長)がおられました。

「のんびり野球でも続けて、外科系の医師に なって、帰郷して、高校野球の監督になって、、」 と夢想していたのですが、当時は70 年安保・ 沖縄問題の渦中にありました。“ふるさと”沖 縄に関わることを看過することはできませんで した。高校野球でかぶっていたヘルメットの形 と色が変わりました。バットも長い竹や棒のよ うなものに変わりました。筆を捨てました。医 者になることを捨てました。

“社会が病気を生み出し、病人をつくる(?)” ことに気がついてからは、個々の患者様に向きあ うより、社会の「変革」へと向かうようになって いきました。時代が要請する歴史的なことに参加 するのだと言い聞かせながら活動していた時期が ありました。しかしながら、それも頓挫してしま いました。その後数年間は、空虚で鬱々とした気 持ちを抱きながら、トラックの運転手などの仕事 をしていました。また、自我の防衛のためでしょ うか、さまざまな本を読み漁っていました。ちょ うどその頃東京神田の古本屋で“心療内科”、 “続・心療内科”という新書に出会いました。立 ち読みをしているうちにこれらの本に吸い込まれ ている自分に気がつきました。

筆者の故池見酉次郎先生は、心身医学・心療 内科について「現在の人間不在の医療のあり方 を正し、心身一如の立場から、現代人の健康と 幸福の在り方を追求することを目指している」 学問と位置付け、さらに「病気という人間とし ての一つの“不幸”をてがかりにして、自分の これまでの生き方を、ひいては自分をとりまく 社会のあり方を深くかえりみて、自分の生活や 社会の中に潜む真の病根をさぐりあてることに 病気の意味がある」と喝破しておられます。ま た「己を知ることは、健康と幸福を実現するた めの基本的な条件となる。己を知るとは、肉 体、情性、知性を含めて身心一如、物心一如の 立場から本当の自分を把握することである。ま た、深く己を知ることによって、自己の主体 性、創造性が発現し、その深まりを通して、と もに生き、ともにある隣人や万物への共感的な 理解と愛情が発露する」とも述べておられま す。病気になること、それ自体は決して不幸な ことではなく、その成り立ちを振り返り、気づ いていくことで、自分をより成長させていくチ ャンスになり得るという意味かと思いました。 患者様だけではなく、患者様から学ぶ医師にも 通じること、これだ!と、しばし震えながらた たずんでいました。

その後10 数年ぶりに筆を持ち、昭和58 年琉 球大学に入学できました。医学部医学科3 期生 です。平成元年卒業と同時に心療内科のメッカ である九州大学心療内科に入局しました。患者 様の心身両面からの診断と治療など多くの事を 学ばさせてもらいました。その後、静岡県島田 市立島田市民病院で内科系の研修を終えて、 “ふるさと”に帰ろうかと考えていたのですが、 当時国立病院で初めての“心療内科”を立ち上 げる話があり、それに加わらせていただくこと にしました。平成4 年、国立精神・神経センタ ー国府台病院(現国立国際医療研究センター国 府台病院)“心身総合診療科”に赴任しました。 まだ心療内科という診療科は標榜出来ず院内標 榜でした。故池見酉次郎先生を先頭に、私たち の先輩たちが営々として築いてきた日本におけ る心身医学・心身医療の豊富で貴重な実績と卓越した理論、そしてその専門性と一般性が認め られ、平成8 年に当時の厚生省の認可がおり て、“心療内科”を標榜するこができたのです。

当時、九大心療内科の助教授であられた吾郷 晋浩先生、講師の永田頌史先生、そして心療内 科で学ばれ消化器系の心身医学・心療内科がご 専門の石川俊男先生などが先に来られていて、 併設の精神保健研究所の心身医学研究部を立ち 上げ研究を進めておられていました。私の仕事 は、先生方のご指導の下で、病院の診療科の立 ち上げに参加することでした。みっちり鍛えて いただきました。また、心身医学研究部での研 究にも携わりました。そのお陰で、日本心身医 学会認定「心身医療“内科”専門医」、「研修指 導医」、また日本心療内科学会認定「心療内科 専門医」の資格をいただくことができました。

さて、これから“ふるさと”の医師会の先生 方のご指導とご鞭撻を賜りながら内科医・心療 内科医として仕事を進めていくようになるかと 思いますが、ここでひとつお願いがあります。 それは、“心療内科”という診療科の理解につ いてです。多くの先生方は、ご理解いただいて おられると思いますが、お叱りを承知で申し上 げたく思います。

○内科は、内科領域の身体疾患を身体面から 医療を行う診療科です。

○心療内科は、“内科領域、各科領域の心身 症としての身体疾患を心身両面から医療を 行う診療科”のことです。精神科ではあり ません。

○神経内科は、パーキンソン病、脳梗塞、多 発性硬化症、進行性筋ジストロフィーなど の神経・筋疾患を身体面から医療を行う診 療科です。

○精神科は、精神疾患を精神面から医療を行 います。統合失調症、躁うつ病、うつ病、 神経症、アルコール依存症など多岐にわた っています。

今、“心身症としての身体疾患”と書きまし たが、“心身症”とは、病名ではなく、「身体疾 患の中で、その発症や経過に心理社会的因子が 密接に関与し、器質的ないし機能的障害が認め られる病態をいう。ただし、神経症やうつ病な ど、他の精神障害に伴う身体症状は除外する」 (日本心身医学会1991 年)と定義されていま す。心身症としての身体疾患の理解には、これ までのbiomedical model では充分ではなく bio-psycho-socio-eco-ethical なmedical model の理解が必要です。すなわち全人的医療 の視点をもった医療を追求して展開することが 大切だと思っています。

いずれにせよ、私には、統合失調症や認知症 や重篤な躁うつ病などの患者様のお世話はでき ません。それぞれの診療科が役割を自覚・分担 して、人間の健康と幸福を築いていき、患者様 も医療スタッフも成長していける医学・医療が 必要であるように思います。

“ふるさと”は、生まれ育った場所、学問を 身につけた所と言うだけではなく、そこを離れ ても、そこに帰っても、常に人間として成長さ せてくれる温もりのある母親のような“場”だ と感じています。

追記:日本心身医学会(理事長久保千春九州大 学病院長)は、東日本大震災に伴う支援活動と して、学会員(医師・看護師・臨床心理士など) による医療チームを編成して、5 月22 日から、 福島県相馬市そして宮城県気仙沼市において心 身両面から医療支援活動を行っています。

私も、6 月下旬、気仙沼市立病院と気仙沼市 立本吉病院に派遣され、“震災後ストレス外来” (写真)を行ってきました。復興への長い道の りの一瞬の時間だと思いますが、多少なりとも お役にたてたかと思っています。