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東日本大震災での医療支援活動の経験

佐々木秀章

沖縄赤十字病院救急部長
統括DMAT 隊員、日本DMAT インストラクター
佐々木 秀章

初めに

3 月11 日に発災した東日本大震災は、広い 地域で急性期から慢性期まで様々なフェイズが 混在し、さらに原子力発電所被災のため地震、 津波、放射線が複合、従来の経験からは想像も できなかった災害になりました。

この大震災にあたり赤十字救護班、石巻圏合 同救護チームサポート医師として宮城県石巻に 入り、また発災直後の沖縄のDMAT の動きを 知る立場として、時間経過を追って報告したい と思います。

全国と沖縄のDMAT の活動

DMAT(disaster medical assistance team) とは「災害急性期に活動できる機動性を持った 自己完結型の医療チーム」と定義され、厚生労 働省の事業として運営されています。沖縄では 救急病院を中心に10 病院15 チームが指定され ています。

今回の大震災では全国で340 チーム約1,500 名が発災直後から被災病院支援や患者搬送など の活動を行いました。自施設の救急車両の他、 ドクターヘリが16 チーム、また千歳・伊丹・ 福岡からは自衛隊機で計82 チームが現地に入 り、花巻や霞目空港でSCU(Staging Care Unit :広域搬送拠点臨時医療施設)を立ち上 げ広域搬送にあたりました。また現地には飛ば ず、搬送患者の受け入れ先となる各地の拠点空 港で域外拠点本部の指示のもとSCU を立ち上 げたチームもいます。

ドクターヘリは各地で140 名以上の患者搬送 を行いました。また被災地から域内搬送されて きた19 名の重症患者を、DMAT の乗り込んだ 5 機の自衛隊機C-1 で花巻や福島空港から新千 歳や羽田に広域搬送しました。さらにDMATの活動期間と想定されている超急性期の48 時 間以降も病院避難のニーズがあり、孤立した石 巻市立病院や福島原発避難圏内からの入院患者 搬送も行っています。DMAT の活動について は国(厚生労働省本部+ DMAT 事務局)→各 県県庁(DMAT 都道府県調整本部)→各拠点 本部で統括DMAT による指示命令系統のもと に、通信機能の麻痺した現地で衛星電話等を用 いて何とか実施されました。

沖縄からは南部徳洲会病院DMAT が民間機 で福岡空港へ飛び、広域搬送患者に備えて福岡 の域外拠点本部統括のもと待機しました。他の チームは沖縄県から要請された自衛隊の動きに 合わせて活動すべく県内で待機しました。結局 沖縄からの自衛隊機によるDMAT 出動はあり ませんでしたが、その後県派遣医療班として DMAT 指定施設を中心にチームを組んで現地 での災害医療を行っています。

1 回目の石巻:赤十字救護班として(3月15〜21日)

原発の状況や道路状況ははっきりしませんで したが、DMAT や赤十字のメーリングリスト 等で情報を収集し発災後すぐに出動を決めまし た。自己完結型の移動手段が必要で、また消防 も被災しているため救急車が必要であると考 え、赤十字職員皆で手分けして医療物資、薬 品、そして生活用品、また念のため放射線検知 器を詰め込み、寒冷地仕様とした救急車を13 日にフェリーに積み込みました。15 日に東京 で車両を受け取り県内で手に入らなかったスタ ッドレスタイヤに変更、翌日に石巻赤十字病院 に入りました。最低気温は氷点下6 度で雪も降 る中、テントでの宿泊でしたが被災者はもっと 寒い中を必死で生きていると思うと何も言えない気分でした。

二次医療圏は石巻市、女川町、東松島市(人 口22 万人)となっていますが、この地区で被災 せず機能している救急病院が石巻赤十字のみで、 免震設計の災害拠点病院でもあり唯一明りのあ る建物でした。地震後数日経過しているのです が市役所も津波の被害にあったため、この地区 のみで死者行方不明一万人以上、避難所300 か 所、避難民3 〜4 万人といわれながらまだ全体像 が不明でした。赤十字病院自体は救急患者が押 し寄せており、とても院外まで手がまわる状況で はありませんでした。そこで外部からきた医療班 が巡回診療を行いながら避難所の情報を集める ローラー作戦が実施されます。約50 の医療班に 3 日間で避難所毎の被災者数、医療ニーズ(小児 科、妊産婦、精神科等を含む)の他、食事、暖 房、燃料、寝具、トイレ等の衛生環境といった 情報をアセスメントシートで提出してもらうこと により医療のみならず避難所環境や公衆衛生情 報も収集していきます。結果、避難所数313、避 難者42,000 名を把握しました。また、通信もこ の時期は衛星電話がやっと通じる程度で、地元 医師会の先生方の安否確認も重要な情報でした。

沖縄赤十字救護班はこの時8 か所の避難所を 救援物資を配りながら巡回しましたが、4 か所 で国立病院、県立病院、自衛隊等の医療機関と 鉢合わせ、一方で1 週間目なのに初めて医療班 が来たという収容者100 人を超す避難所もあり、 医療班の効率的運用ができていませんでした。

対策本部の業務は医療のみならず、行政機能 が崩壊しているため巡回班の情報をもとに水、 食糧、簡易トイレ、燃料、寝具の手配、災害支 援物資の運搬にも及び、これらがあってこその 医療だということを痛感しました。

その一方で実際の巡回診療では今回の被災者 は津波によるものがほとんどであり、黒か緑と いわれる通りで、すでに津波肺や低体温の患者 さんの受診もなく、この時期でも慢性疾患の投 薬が主でした。思いだすのは高血糖の患者さん がインスリンを使用してないからといい、なぜ と問うと、1 日おにぎり1 個でインスリンを打 つと低血糖で皆に迷惑をかけるからというもの でした。避難所のリーダーの方に食事の配慮を お願いし、半量のインスリンを打つよう指導し ましたが正しい答えだったのかどうかいまだに わかりません。入れ歯が流されておにぎりをも らっても食べられない、眼鏡がながされコンタ クトを1 週間入れたままなど、災害時にこんな 医療ニーズがあるなど想像したことはなく、返 答に詰まってしまいました。

通信手段が途絶する中、情報を得るために必 然的に各地からの医療班は明りのついている石 巻赤十字病院に集まることとなりました。医療 社会事業部長の石井正先生が宮城県の導入して いた災害医療コーディネーターの指定を受けて いたこともあり、その後県からこの地区の医療 管理を任され「石巻圏合同救護チーム」(以下、 本部)としてこの地域の統括を行うこととなり ました。病院の奮闘ぶりはこれまで各メディア で紹介されている通りです。ちなみに6 月25 日 までは取材や面会の申し込みが毎日来ていたそ うです。

最大70 を超す外部医療班を300 以上の避難 所にマッチングさせ、情報を分析し計画をたて 後方支援を行うのは膨大な労力であり、また地 域により被災の状況が異なることから、その後 本部ではエリアライン制という制度を導入しま した。圏内を14 のエリアに分け必要医療班数 をラインとして割り当て各々に幹事を指定、さ らにそのエリアに短期医療班をスポットとして はめ込み、その地区で地方自治のようにローカ ルルールをつくって引き継いでもらうという方 法で、短期で交代する医療班を非常に機能的に 配置できました。

私はその後、本部長のサポート医師として3 度石巻日赤に入り、その指示のもと調整業務を 行いましたが、時期により現地のニーズが変わ るのを目の当たりにして、沖縄でどうすればと いう思いを強くしました。みなさんに一緒に考 えていただければと思います。

2回目の石巻(4月3〜8日:大震災後3週目)

この時期は50 程度の医療班が活動していま した。巡回医療班によるアセスメントは非常に 有用で医療のみならず生活、公衆衛生状況、さ らに感染症の発生状況まで当日中に把握可能で した。それによると飲料水は比較的いきわたる ようになりましたが食事は量、質とも十分とはいえませんでした。また公衆衛生、特にトイレ の問題は大きく避難所により衛生環境に大きな 差がある状況でした。こういった情報を市に提 供する一方で、役所で手が回らない避難所用の 簡易トイレの手配に注力しました。

アセスメントの結果、妊産婦、乳幼児や子供 は予想外に少なく、内陸部に2 次避難されてい るようでした。また自宅や施設で介護を受けて いて被災、避難所に入った要支援者の状態悪化 が報告されました。このため環境の良い内陸側 の遊楽館という施設を福祉避難所と位置づけ、 各避難所に散らばる要支援者を収容することと しました。この際すでに避難している健常な方 に移動してもらう必要が生じたのですが、なか なか困難で本格運用には少し時間を要しまし た。やはり平時に要支援者をリストアップする とともに、福祉避難所等の収容先をあらかじめ 計画、指定しておくべきと思われます。

病院はこの時期でも救急患者が多数来院して おり、避難所環境での状態悪化やインフルエン ザ等の感染症になり、入院までには至らないが さりとて避難所にも戻せない方々をどうするか が問題になりました。このため民間病院の1 フ ロアを借用してこういった患者さんを看る救護 所“SSB(Short Stay Base)”を立ち上げ医 療班を配置しました。大震災後3 週間ですが、 社会的基盤が戻らず収束どころかいまだに臨機 応変の対応が求められる状況でした。

4 月7 日の夜には震度6 強の余震があり、暗 闇に津波警報のサイレンが鳴り響くなか、病院 へ向かい多数傷病者収容に備えました。心肺停 止2 名と30 名強の傷病者が受診、病院の素早 い対応によって2 時間程度で平静を取り戻すの をみて自院での対応を考えざるを得ず、被災地 には悪夢を思い起こさせるものでしたが、得難 い体験となりました。

3回目の石巻(4月27日〜5月3日:7週目)

35 チームほどの医療班が活動していました が被害の少なかった開業医さんが再開してきて おり、医師会と連携を取りながら可能な限りそ ちらへ誘導するようになりました。再びローラ ー作戦を行い避難所の状況をリセット、また保 健師さんと一緒に在宅避難者(1 階が津波の被害にあい2 階に避難している人々など多数いら っしゃいます)、各避難所での要支援者をリス トアップしましたが予想より少なく、すでに 様々なネットワークで2 次避難されているよう でした。

この少し前にグーグルと共同で各避難所情報 閲覧システムが出来上がっており、アセスメン トシートで医療班が提出した各避難所の被災者 の状況や咳、下痢などの症状の患者数がネット でその日のうちに閲覧できるようになりました。 パスワードなしでだれでも見られるようになっ ており、毎日のミーティングの議事録、エリア ライン表などの公開と合わせ、後方支援にあた る関係者の方々の状況理解の助けにもなってお り、今後の災害医療での活用が期待されます。

ところでこの地区はもともと医療過疎地域で あったこともあり、大震災前より手厚い医療は 行わない、開業医さんが再開すれば救護班は早 急に撤収する方針で医療班の収束をはかりまし たが、災害医療は出動より撤収が難しいといわ れるとおり医療班の派遣元との調整は少々困難 でした。現場の状況はやはりマスコミで流され るイメージが強いからかも知れません。

4回目の石巻(6月21日〜30日:15週目)

発災後100 日を超え、巡回対応避難所46、避 難者3,400 名まで減少し、医療班はさらに収束に 向けた調整となりました。すでに地域の医療機関 は90 %が再開しており、7 月からはほとんどで 保険診療が再開されることになりました(免除認 定申請書を所持している方は無料のままです)。 交通手段は民間スーパーによる避難所−医療機 関巡回バスが運行され、車と財産、仕事を失っ た被災者も移動がある程度可能となりました。

すでに避難所から仮設住宅への引っ越しも始 まりましたが、共同生活の連携が断たれた上に 自立とみなされ、食事、光熱費等の費用が生じ ることもあり、現実が重くのしかかっています。 地域でのこころのサポート体制を立ち上げる準 備が進行していました。また仮設住宅入居者へ の介護提供体制が問題となっていましたが、ボ ランティアベースではなく震災前からある介護 ステーションを利用し、地域の雇用の維持も考 慮した体制を作り上げようとしていました。

本部では救護所の物品の撤収も行いますが、 救護班が持ち込んだ医薬品が大量に残され、何 とか有効利用をと思うのですがやはり法律の壁 で廃棄と決定し、発災直後の物不足を思いだす と憤りを感じずにはいられませんでした。

発災後と異なるのは気温もあります。3 月の 氷点下では低体温症が問題でしたが、6 月には 真夏日もありハエの大量発生や、避難者ではな くボランティアなのですが、集団食中毒も発生 しました。これから夏に向けて熱中症が心配さ れる状況です。

このように順調に復旧している地区もありま すが、三陸沿いの壊滅的打撃を受け医者のいな くなった町や、地盤沈下で海と区別がつかなく なりいまだに行方不明者の捜索が続いていると ころもあります。復旧から復興への道のりは長 いものがあると感じざるを得ませんでした。

最後に

石巻赤十字病院の本部で、ずっと黙々と働いている職員の中にも被災者がおり、本当に頭の 下がる思いでした。津波に襲われた町と被害の なかった町が隣接する現実も、日常と非日常が 並び馴染むことができませんでした。明日の沖 縄を考えれば今日の何気ない日常が明日また本 当に来るのか、考えてしまいます。ぬちどぅた からを肝に銘じ、災害への備えをここ沖縄でも 皆で考える必要を強く感じました。

図1

図1 : HOT センター:機材を調達し院内にHOT 患者さんの 避難所を設けた。その後二次避難へ。(石巻赤十字病院提供)

図2

図2:各避難所には在宅介護だった方もおり、状態の悪化が見られた。

図3

図3 :福祉避難所を設けて一般の避難所から要支援者を移し、 介護体制の整備をはかった。

図4

図4 :地区の小学校が避難所になっており、そこから他の学 校にバスで集団登校。

図5

図5 :女川町立病院では1 階部分まで津波が到達し、2 階より 上で診療が行われている。