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沖縄県医師会災害救助医療班について(第13陣報告)

九里武晃

アガペ会北中城若松病院 九里 武晃

はじめに、今回の尊い活動を開始し、私達の 活動中も支えて下さった医師会の皆様、募金を してくださった多くの方々、法人として全面的 に活動に協力してくださった院長先生、私の通 常業務を快く担って下さった若松病院の先生 方、何よりも私を快く送り出し、祈りでささえ てくれた愛する家族に心から感謝します。

第13 陣のメンバーは、一足早く現地入りし た、かじまやークリニックの金城聡彦先生と北 中城若松病院看護師の新垣悟さん(13-1 陣)、 私と一緒に現地に向かった北中城若松病院の嘉 陽多津子さんと沖縄県医師会の山田愛里さん (13-2 陣)の計5 名だった。(第一陣: 5 月13 日(金)〜 5 月20 日(金)、第二陣: 5 月15 日(日)〜 5 月22 日(日))

私達が派遣されたときは、既に震災後2 ヶ月 経っており、5 月末での医療チームの撤退が決 定していた。活動の規模を縮小していく時期に 当たり、できるだけ地元医療機関につないでほ しいとの要請を受けた。地元の県立大槌病院が 小槌神社の前で仮設診療所をオープンしており、検査も少しはできるようになっていた。

那覇空港にて医師会の方々に見送られ、1 週 間の活動が始まった。活動拠点である城山体育 館に着いたとき、津波の被害を目の当たりに し、涙が出た。家屋はことごとく流され、鉄筋 の建物も1 階部分が骨組みの鉄骨だけになり、 それも曲がってしまっている。

小槌川の河原に瓦礫が逆流して溜まってい る。町の鉄道(山田線)の鉄橋が流され、橋桁 が倒れている。電信柱が根こそぎ抜かれてい る。津波に続き、火事があったと思われ、建物 が黒こげになり、車がつぶれフレームがぐにゃ ぐにゃ曲がってやけて黒こげになり、さらにさ びてしまっていた。山にも火がうつったようで、 まだらに黒こげになっていた。ひとりのご老人 が高台の公園から津波によって変わり果てた街 を眺めながら震災当日のことを話してくれた。

「高台の体育館に逃げ込んだ。津波の後で火事 がおこった。火がこの山の回りの木に燃え移った。 逃げるところはなかった。誰かが『風向きが変わ れば助かるかもしれないよ』と言ったが、『津波で おぼれて死んだ方が火で焼かれて死ぬよりよかっ た。』と思った。地獄というものを初めて見た。」

私達は遠野市に宿泊し、毎日車で山道を大槌 町まで通った。城山体育館での活動は9 時〜 16 時で、その後釜石の災害対策本部で活動報 告と情報交換を行った。

1 日の患者数は30 名程度で、全ての方に診 療所の5 月いっぱいの閉鎖と診療を開始した現 地の医療機関を紹介した。ほとんどが慢性期患 者と上気道炎などの軽い感染症だった。期間 中、インフルエンザ患者が発生し、避難所の個 室を借りて隔離を行い、必要に応じてタミフル の予防投与を行った。

診療所の閉鎖を伝えると困惑する方もおられ た。足腰が悪く、歩行も難しい方である。大槌 病院の仮設診療所に行くには急な坂を通らなけ ればならず、お年寄りには難しい。診療所と避 難所をめぐる巡回バスを用意する話が1 ヶ月以 上も前からあったという。釜石の災害対策本部 でも、何度も大槌町に働きかけていたが、未だ 実現していなかった。大槌町は町長をはじめ、 多くの職員を津波で失い、混乱していた。現行 のバスルートを運行するバス会社との競合など もあるらしい。釜石は大槌町のやり方に干渉で きる立場にはないとのことだった。

大槌体育館の避難所を巡回中に、昼になって も横になって動かないやせたお年寄りの方を見 かけ、声をかけた。

『どうなさいましたか?』

『昨日役場に行って腰と膝を痛めたの。』

役場に行くためには急な坂を下っていかなけ ればならない。

『行きは小学生たちと一緒に下って行ったんだ けど、「帰りは登りだからもっと大変だよ。気 をつけてね」っていわれた。役場で手続きを済 ませて、上り坂を避難所に戻ってきた時、腰を 痛め、動けなくなったの。

避難所からの何らかの交通手段を確保しなけ れば、このような人を見捨てて去っていくこと になる。宮崎県から城山体育館に派遣されてい る保健婦の方々も精力的に交渉してくれてい た。私達の派遣中、ついに皆の努力が実り、社 協(社会保険協議会)が、大城体育館とその坂 下までの往復の運行を決定したという知らせが 入った。さらに最終日、我々の撤退後、日赤の グループの巡回診療に引き継がれることが決ま った。ご尽力下さった釜石の災害対策本部長、 寺田尚弘先生に大変お世話になった。

ちょうどPTSD などの心のケアが問題とな ってくる時期にあたった。心のケアの専門家 (NGO 世界の医療団)が現地に入っていたが、 東北の人々は、なかなか自分の内面を話したが らない人が多いようだ。困っていても専門家の 受診までは気が乗らない方が多かった。しか し、沖縄県医師会のスタッフには、立ち上げか ら前任者に至るまで積み重ねてきた住民との信 頼感があり、いろいろな相談にのってこられる 方が多かった。診察室を訪れる方に対し、時間 を十分にとってその心の痛みや悲しみに耳を傾 けた。

ある日、高齢の女性が診察室に来られた。 『いとこ夫婦が津波に流された。捕まっていれ ば大丈夫だったと思うんだけど、知り合いを助 けにおりていったら流された。85 歳のお姉さん も流され、いなくなった。親しくしていた近所 の人もいなくなった。いないなーって思ってい ると、次々に悲しい知らせが届く。悲しくて悲 しくて。80 過ぎの自分だけ残った。

犬も猫も好きだけれど、もう年だから飼えな い。自分が先死ぬと思うと可哀想だから。これ から仮設住宅で2 〜 3 年住み、死のうと思う。

避難所で歩くときは静かにそーっと歩くんだよ。他の人の邪魔にならないようにとても気を 遣うんだ。昨日はとなりの夫婦げんかが激しく て眠れなかった。ちょうど自分たちの角で夫婦 げんかが始まったんだ。でも、マイスリーとデ パスを飲んだら、眠れるようになった。ありが とうね。先生は神様のようだ。

沖縄の先生に会って本当によかった。長話を きいてくれて。お金があれば沖縄に行きたい。 お金はあったんだけどね・・。80 歳になって こんなふうになるとは思わなかった。愚痴ばか り言ってごめんねー。』

話を聴けば聴くほど津波の恐ろしさ、その方 が置かれている現実が伝わってくる。

宮崎の保健婦さんが毎日、避難所を巡って、 一人一人の訴えに耳を傾けていた。私達は彼ら のおかげで避難している方々のニーズを知るこ とができた。私も時間があるときに一緒に避難 所を回診し、希望者にマッサージや鍼灸を施術 しながら、話し相手をさせていただいた。ある 日、左の胸腰部の痛みがある高齢の方が、体位 変換することも難しく、避難所に横になってい た。腰に触れると凝っている脊柱起立筋があ り、それを目標に針治療を行った。この方は 10 分程度の治療で、かなり痛みが軽減し、こ のような治療も必要であると感じた。私達のチ ームでは鍼灸の提供はないため、AMDA の鍼 灸師の巡回チームに情報を引き継いだ。

今回の活動では、本当に素晴らしい仲間に恵 まれた。金城先生はユーモラスなトークでチー ムを引っぱってくれた。青森テレビの突然の取 材にも快く対応していただいた。新垣さんは、 運転手から子供達の看病までエネルギッシュな 働きでチームを支えてくれた。また、嘉陽さん の絶やさぬ笑顔と、患者さんへの優しい気配り に助けられた。山田さんは持ち前の明るさでチ ームを和ませて下さると共に、私達が医療に専 念できるように素早くコーディネートして下さ った。何か役に立ちたいという気持ちがそうさ せるのか、期間中、皆、医師・看護師・事務と いう職業を超え、掃除・運転・電話連絡など何 でも必要とされることを喜んで行った。このよ うな柔軟性は、時間単位でニーズが変わってく る災害支援では不可欠で、その意味でもこのメ ンバーは最高だった。

最終日、城山体育館を後にするとき、城山の 崖に大きな横断幕が貼られ、『復興支援アリガ トウゴザイマス』と書かれていた。避難所の皆 さんが力を合わせて作ってくださったことを思 い、胸がいっぱいになった。このように困難の 中にあっても感謝の気持ちを忘れない被災者の 方々に接し、物質文明や競争社会の中で、失わ れてしまった大切なものを被災地の方々に教え ていただいた気がする。