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2ヶ月目の被災地〜救護班活動に参加して〜(第11陣報告)

吉田貞夫

北中城若松病院 吉田 貞夫

第11 − 2 陣(吉田、ちゅうざん病院看護師 の鈴木多恵子さん(写真1)、事務の比嘉恒夫 さんの3 名)は、5 月5 日に那覇空港を出発し、 花巻空港から被災地である大槌町に向かった。 東北はようやく遅い春を迎えたころで、終わり かけの桜の花がいたるところに咲き、新緑がま ぶしい。しかし、沿岸部に着くと、その風景は 一変した。テレビの画像ではみていたが、実際 に目の当たりにすると、その衝撃はやはり大き かった。津波に加え、火事によって焼けた家の 鉄骨や自動車は、2 か月の間にさび付いてしま っている(写真2 左、右)。

写真1 5月5日に那覇空港を出発。ちゅうざん病院の看護師、 鈴木さんと。

写真2

写真2 左:城山体育館近くの火事で焼けた家。右:大槌駅があった付近の様子。まだ大量のがれきがそのままになっている。

到着翌日より診療にあたる。外傷の症例など は少なく、多くは高血圧症、糖尿病などの慢性 疾患の症例であった。震災後のストレスで、一 時は血圧のコントロールもうまくいかなかった が、ここのところようやく血圧も安定してきた という症例が多かった。がれきから立ち上がる 埃のため、気管支炎を発症し、痰や咳が止まら ないという症例も多かった。「夜間、避難所で 咳をすると周囲に迷惑がかかるので、何とかし て咳を止めてくれ」という。被災者の方々が2 か月間どれほど肩身の狭い思いをしながら生活 をしていたのかを思い知らされた。ジヒドロコ デインなどを配合した咳止め液がとても重宝が られていた。

5 月になると、避難所に常駐して診療を行っ ていたのは、釜石・大槌地域では我々沖縄県医 師会チームのみだった。そこで、自衛隊から夜 間診療や緊急の処置などの依頼がくることも多 かった。がれき撤去作業中に負傷した自衛隊員 などの処置も行った。5 月初旬の段階では、釜 石・大槌地域のなかで沖縄県医療班の診療した 症例数は格段に多く、1 日30 〜 50 名前後だっ たと記憶している。

診療にあたっていつも注意を 払っていたのは、被災者の心の ケアの必要性であった。不眠を 主訴に訪れた現地の医療福祉関 係者も、よくよく聴いてみると、 溺水者を救助したが、泥や油な どの誤嚥のため次々と息を引き 取っていくのを目の当たりにし、 「助けられなかった」という思いが頭から消えないといっていた。 宮崎市の保健師さんを通じて、 神奈川県の心のケアチームを紹 介した。少しでも心の重荷を軽 くしてあげられたらと思う。

第11 陣滞在中、最大のできご とは、医師会から診療時間短縮、 ならびに、夜間の避難所への駐 在の終了の連絡がきたことであった。これは、 地元の開業医の先生方が診療を再開されたこと もあり、そちらへ患者を誘導するという釜石市 災害対策本部の方針でもあったらしい。これに より、診療時間は9 時〜 16 時となり、夜間、 避難所に医療班は不在となる。

さて、これを被災者の方々にどのように伝え るべきか。これまで5 週間にわたって支援活動を 続けてこられた、オーストラリア在住の山内肇 先生を含め全員でいろいろ話し合った。まず、 不安を抱えている被災者の方々の理解が得られ るかどうか心配だった。そして、事情をうまく伝 えきれずに、これまで築かれた信頼関係を傷つ け、この医療班で診療されてきた先生方の努力 を水の泡にしてはいけない。いったんは、山内先 生がこれまで書かれていた『診療所だより』に 記載して配布するということになったが、やはり 直接伝えるべきだろうということになった。自分 と事務の比嘉さんで文言を考え、避難所内をま わって直接話して伝えることにした。我々がい きなり話すのもどうかと思われたので、地元の開 業医の道又先生にもご一緒していただいた。

夕食が終わるころを見計らって避難所に行 き、事情を説明し、「避難所のみなさまにご心 配、ご不便をおかけすることをお詫びします。」 と謝罪した。正直なところ、避難所が不満の声 でいっぱいになったらどうしようと思った。す ると、しばらくの静寂の後、被災者のみなさん から拍手がわき起こった。これはひとえに、こ れまでこの医療班に派遣された先生方の実績を 被災者の方々が評価され、感謝されたからだと 思う。本当にありがたかった。

医療班の夜間の常駐がなくなることで、夜間 の緊急対応が困難となる。被災者の代表の方や、 宮崎市の保健師さんたちと相談した結果、自動 体外式除細動器(AED)の使用法の講習会をし てほしいということになった。ちゅうざん病院 の看護師、鈴木さんが講師となり大熱演し、被 災者の方々からたいへん好評だった(写真3)。

写真3

写真3 自動体外式除細動器(AED)使用法の講習会の様子。ちゅうざん病院の看護師、鈴木さんが講師となり大熱演した。

診療室の壁には、北中城若松病院から贈られ た応援旗が飾られていた。受付のデスクの後ろ なので、被災者の方々も目にされ、とても喜ん でくれた。

写真4

写真4 北中城若松病院から被災地へ贈られた応援旗と、大槌町の道又先生(右)、藤丸先生(左)。

5 月8 日、長期間にわたり支援活動を続けて こられた山内先生も帰国の途につかれた。被災 者の方々ひとりひとりに親しく話しかけられ、 医療のみならず、生活にまつわるさまざまな問 題について支援されていたため、被災者の方々 からの信頼も篤く、別れを惜しむ人が数知れな かった。診療の合間に英語を習っていたという中学生の女の子たちが、何度も別れをいいにき ていた。この中から、医師や看護師を目指す子 がでてくるのかもしれない。山内先生の活動を 支えた奥様から、オーストラリアのみなさんの 思いが書き込まれた応援旗も届いた。前述の北 中城若松病院からの応援旗は、道又先生が移転 開業された際、その診療所に飾られたため、診 療室には新たにオーストラリアからの応援旗が 飾られた。

写真5

写真5 左:山内先生と。
右:オーストラリアからの応援旗を背景に。前列左から、 ちゅうざん病院の鈴木さん、おもろまちメディカルセンター 看護師の島袋さん、後列左から、医師会の比嘉さん、ハート ライフ病院の普天間先生、避難所1階代表の小向さん、吉田、 琉球大学の栗山先生、北中城若松病院看護師の小泉さん。

5 月8 日の夜間、自衛隊から連絡があり、別の 避難所で嘔吐、下痢、腹痛といった胃腸炎症状 の症例が数名いるので、診察してほしいとの依 頼があった。しばらくすると、10 代を中心に8 名ほどの患者が来室した。手分けして診察を行 い、重度の脱水が認められる症例には輸液を行 った。多くの症例は、内服の処方、経口補水液 の提供、500ml の輸液などで、もとの避難所に 帰ることができた。しかし、そのうち1 例だけ は、脱水のため、輸液の継続が必要とのことで、 診療室内に1 晩滞在することになってしまった。 診療室は入院施設ではなく、夜間を通じての点 滴の管理、下痢便の管理、トイレの清掃などが 行えるわけではない。その結果、朝になって、 その患者が夜中、複数箇所のトイレで、数回に わたって嘔吐、下痢便を排泄してしまったこと が判明した。城山体育館には、高齢者や、未成 年の被災者も多数居住しており、集団感染の可 能性も危惧される。1 階の男子トイレを患者専用 とし、一般は使用禁止とせざるをえなくなった。数百人の被災者の方々がこのトイレを使用して いたので、多くの被災者の方に多大な迷惑をか ける結果となってしまった。被災者の方々のた めに行っている医療支援、ボランティアである のに、被災者の方々に迷惑をかけてしまっては 本末転倒だ。深く反省すべきと思っている。

大槌町での支援の最終日である5 月11 日は、 地震発生から2 か月目の日であった。地震のあ った14 時46 分には、メンバー全員が屋外に出 て、サイレンとともに、がれきと化した大槌町 市街地の方に向かい黙祷を行った。あれから2 か月、少しずつではあるが復興の兆しは見えて きた。しかし、これからも長い戦いは続くに違 いない。

今回、医療支援に参加し、久高先生、普天間 先生、栗山先生といった県内第一線で活躍され ている先生方や、大槌町の開業医の先生方から 多くを学ばせていただくことができた。また、看 護師のみなさんや、宮崎市の保健師のみなさん、 薬局のみなさんのチームワークにも大きな感銘 を受けた。災害に苦しむ方々のために尽くすこ とで、医師としてのアイデンティティーを再確認 することができ、今後の診療の大きな糧をいた だいたような気がする。参加させていただいて本 当によかったというのが正直な心境である。

支援から帰って10 日ほどがたったころ、被 災者のまとめ役のひとりだった小向さん(写真 5 右)が、わざわざ私の勤める病院まであいさ つにきてくれた。本当にうれしかった。人と人 のかけがえのない絆のようなものを感じること ができた。医療支援は終わっても、何らかの形 で支援を続けていきたいと思う。がんばれ日 本! がんばれ東北! 被災地の1 日でも早い 復興をお祈りするとともに、医療支援活動を支 えてくれた医師会をはじめとする関係者の 方々、不在中の業務など代行して支えてくれた 北中城若松病院の職員各位に、心より感謝の意 を申し上げたい。