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愛と憎しみ

比屋根勉

嶺井リハビリ病院内科 比屋根 勉

父は明治43 年に中頭郡美里村に生まれ7 男1 女の7 男で末っ子であった。性格は日頃は温和 で内気。美里尋常小学校(中頭病院の近く、沖縄市知花と登川の間にあり現在は昔の奉安殿が 残っている)を終え、昔美里にあったといわれ る山本医院で薬局に勤めていた(恐らく助手で あろう)。動機は聞き損ねたが、20 歳代の昭和 初期の頃にダバオに移民し(恐らく当時の沖縄 は不況で生活できず、また一旗挙げるつもりで 移民したかも知れない)、マニラ麻の麻山の開墾 にたずさわる。入植地の地名はミンタル耕地と もワガン耕地とも聞いた覚えがあるがはっきり しない。自分での開墾ではなく恐らく先に入植 した沖縄県人の所で働いたと想像される。昭和 16 年の開戦時は現地召集を受け衛生兵の教育を 受けダバオ駐屯の第100 師団野戦病院に勤務し 戦中はミンダナオのジャングルを逃げ回り衛生 兵だったため弾は一発も撃たなかったらしい。 当時一緒にジャングルを逃げ回った加藤さんと いう元上官に30 年前東京でお会いした事があ るが(加藤さんは会社員だったので、軍医では なく恐らく学徒兵で衛生隊の幹部だったか?)、 敗戦時に米軍に投降する時に加藤さん達から、 君達は現地招集で元々兵隊ではないのだから民 間の収容所に行きなさい、と言われ部隊から離 れ一民間人としてダリアオン捕虜収容所に収容 されたらしい。福岡に引き上げた後同じ引き上 げ組の母と一緒になり沖縄に帰るが、トラック で故郷の美里村登川に着いた時、松比屋根のウ メーと呼ばれていた親戚のお婆さんがトラック から降り立った父を見つけ、トゥクー(徳と言 う父の童名)がけーとーんどう!!と驚きと喜 びにあふれて近所に知らせ回ったらしい。村内 (むらうち)の屋号かまーめーんとう(蒲前武 当?)という家の座敷を借り戦後の生活が始ま った。小生は父の40 歳時にそこの座敷で生を 受けたのであるが一度お尋ねし御挨拶に行こう と思っているのだがまだ果たしてない。戦後の 一時期は父達が酒を垂れて母がそれを米軍の野 戦用の水筒につめコザまで持って行き商いをし たらしく、母曰く、父は酒を垂れる時になみや ーなみやーして味見をしたらしく、母によると その時が父の酒の飲み始めらしい。父の酒癖に ついて実感し意識し始めたのは小学校の6 年か ら中学生の時であろうか。普段は穏やかであま りものを言わずよその方からはあんたのお父さ んはいい人ねーと言われたりもしたが、夜にな り酒を飲み始めると朝まで寝ずにくだくだと母 に対してか誰に対してかわからないが時に大声 で文句を言い、僕ら兄弟が学校に行く頃にやっ と寝始めると言う記憶がある。中学校から高校 の頃までも父の酒癖は変わらず、夜の父のわめ き声で寝つけない日はそれなりに耐え難いもの があった。普段は私達兄弟とは会話はあまりな いが酒が入ると勉強しろ勉強しろと言い、あげ くの果ては勉強中に部屋まで入って来て、本人 は普段会話不足と思っての事か会話を求めよう とし酒臭い息でくだくだと説教し結果的に勉強 のじゃまをされた時は本当に頭にきた。父のそ の様な酒が続くと中学生の小生としてはいわば 酒乱の父への憎しみがつのるばかりで腹いせに 首をくくって死んでやろうかと思う事が何回も あった。酔っ払いながら“親は親足らずとも子 は子たるべし”と言っているのを聞くとこの野 郎!勝手な事を言って!と軽蔑の念が湧き上が るのであった。高校生のある夜、家に帰ると既 に酔っ払った父が何か文句を言いワーワーと訳 のわからん事を言いつのり、小生に対しても何 かわめいていたので頭にかっときて、“この野 郎!お前はそれでも親か!”と言いながら投げ とばして後ろからはがい締めにし柔道の帯で後 ろ手に縛り挙げてしまった。後日親戚のおばさ んが家に来て母に対して、あんた達は父親をす そーん(粗末に)している、と小生には何も言 わず母だけを責めているのには参った。側で聞 いていてこのおばさんは父の酒乱のひどさが何 にもわかっていないなと思った。タバコは吸い たい放題でヘビースモーカーであり、その様な じままな生活が続いていたので父には尊敬の念 は全く湧かないし、勉強しているかと言われる と、酒くぇーふらーが何言うかと反発がつのる 一方であった。ある朝登校前に母に“父ちゃん がうなって苦しんでいるよ”と助けを求められ た時は“又酒飲んだだろう!放っとけ!”と言 い無視してそのまま登校した事もあった。当時60 歳代の父は80 代の老人の顔をし、比べて父 のすぐ上の叔父さんは若若しく、酒とタバコの 害は子供心にも感じられ、今思うと免疫力が大 分落ちていたのであろう。父が70 歳代になる と、小生にも既に子供ができ多少は親の気持ち がわかる様な年齢になっていた。その頃には父 の酒量は減っていたがタバコは相変わらずであ った。78 歳のある日呼吸困難で病院に運ばれ肺 癌疑いで入院となったが結果は果たして小細胞 癌であり末期で抗癌剤投与は不可能な状態であ った。父の最期は呼吸苦との闘いであり苦悶の うちに死んだので肺癌の恐ろしさをじかに見て タバコをやめる必要性を痛切に感じた。あれ程 反発し憎んだ事もあった父ではあったが、死後 時どき見た父の夢は、例えばある夢の1 シーン だが、遠くから歩いて来る父を見て父ちゃー ん!と大きな声で呼び手を振って走り寄る子供 の自分がいて、夢から目覚めた瞬間、あーこれ は夢なんだ、自分も父への愛情はあるんだとほ のぼのとした気分になって又寝入ると言う事が あり、肉親への愛情を実感したのであった。兄 弟で父の話になり、あの頃の親父の酒癖のひど さはなかったと言うと弟は親戚や地域の皆さん は父は人情持ちで悪く言う人はいないよと言 い、また妹はよその家庭では父親の暴力で外へ 逃げ朝まで母親と外に隠れたと言う話も聞くか らうちはまだいい方だったんじゃないとか言う し、年上の従兄弟はあんたのお父さんは戦争中 での大変な苦労があるからあの様に飲んでしま う事情があるとか、また早くに父親を失った別 の従兄弟は父親がいない生活の苦労を語り酒飲 みでも父親はいるだけでもいいとその存在の有 難さを強調した。それに対してあの頃の父の行 状を考えると自分にはその様にはとても思えな いわだかまりがあった。父との関係としては弟 達より自分の方がそれだけ深かったのであろう か?少年がいだく理想的な父親像とのあまりに 違いすぎるギャップ、あるいは私達子供に無私 の愛をささげてくれる母との違い。少年から青 年へと成長する子供とはねじれた接し方しかで きない父親とそれに対する少年の反発。父親に対する強い対抗心を抱いたいわゆるOedipus Complex の部分的な撥露だったかも知れない。 父親への愛憎ないまぜの気持ちで成人した小生 としては父を反面教師として父の様な酒は飲む まい、子供達にはあの様なぶざまな姿は見せま い、と思ってきた。タバコを止めて15 年になる ので、78 歳で死んだ父の年齢を超え80 歳代ま ではそれなりに大丈夫ではないかと変な自信め いたものを持っている。父とは違い酒はほどほ どに飲んでいるしタバコはとっくに止めて元気 なので今後は仕事に励みながら、時にはボラン ティアに行き、いつかはアフリカ大陸一周や南 米大陸一周の旅に出てみたいと思っている。