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郷里の偉人伝―医師・遠藤朝英(俳号石村)―

金城忠雄

沖縄県総合保健協会 金城 忠雄

糸満市南山城跡から県道7 号南へ2km、真壁 城跡寺山と称する小さな公園がある。その一角 に、俳句の「遠藤石村句碑」が建っている。 「製糖期の日がどっしりと村つつむ」

句碑の主が、同郷糸満市真壁出身の医師で俳 人「故遠藤朝英」俳号は「石村」その方である。昭和31 年(1956)から「琉球俳壇」の選 者として活躍し、昭和52 年(1977)帰郷中に 急逝するまで21 年間の長きにわたり選者を担 当した。没後、昭和54 年(1979)「遠藤石村 賞」と「遠藤石村句碑」設立された。沖縄俳句 界には絶大な貢献をなされている。


(糸満市真壁には、私の実家があり、現在は 両親も亡くなり仏壇だけの空き家になってしまっ たが、土・日、週一回の線香灯しと、盆正月・ 年中行事には家族が集まるようにしている。)

一方、医師としての故遠藤朝英は、「沖縄医 療保険制度」創設に関して当時の稲福全志県医 師会長に協力し日医武見太郎会長の下、常任理 事の立場で献身的な貢献をなされている。

平成12 年県医師会発行の「沖縄県医師会史 ―終戦から祖国復帰まで―」を読み感激、同郷 の偉人として尊敬と憧れをもって紹介すること にした。

当時の豊かでもない同郷の大先輩が、沖縄県 の俳句界と医師会に大きく貢献した情熱とその 業績を辿る。

「遠藤朝英」は、明治40 年(1907) 真壁間切り生まれ、幼名は、翁長蒲太郎「うながぬ カマー」と呼ばれていた。上京後、遠藤家との 養子縁組により改名したようである。

少年の頃、農家の砂糖キビ作やイモ作の生活 では、豊であるはずがない。古老の話による と、父は日雇い労働、兄はハワイに移民、本人 はよその家の子守と、赤貧洗うがごとしそのも のであったらしい。子供をおんぶしながらも、 本は手離なさず本好きとの評判だった。「チン シーフルク」今で言う「膝関節炎」その激痛で 泣き叫んでいたこともあった。

そんな家庭環境でも、成績抜群なので特待生 となり、奨学金で沖縄県立一中に進学できた。 貧乏ではあっても優秀な子弟には、奨学金をあ たえて進学させる心意気は立派であり感激する。

当時沖縄県立一中には、平良幸市元知事は同 期生、医療界においては、稲福全志元県医師会 長の先輩にあたる。

東京慈恵医大への進学後も特待生で授業料は 免除されたが、大学時代の生活には、ハワイの 兄からの援助もあった。生活費の足しにと髪の 毛を売ったり、五反田から新橋の慈恵医大まで 4km 歩いて通ったらしい。

慈恵医大の研究では、耳鼻咽喉科を専攻しア レルギー学に精通、当時の日本では斬新的なハ ウスダスト抗原性の研究で医学博士を授与され た。減感作療法を実施した極めて数少ない医師 の一人であった。

大学の研究活動の後、東京品川区五反田で耳 鼻咽喉科を開業し咽喉頭部の専門医として診療 に従事した。声のお医者さんとして名声高く、 春日八郎、江利チエミ、高嶺三枝子など多くの 歌手の主治医を勤めた。沖縄出身の歌手仲宗根 美樹、大空まゆみ、作曲家「お富さん」の渡久 地政信などとは家族ぐるみのつきあいであっ た。森英夫のペンネームで歌謡曲作詞家でもあ る。ちなみに、夫人の故竹代さんはキングレコ ード専属歌手である。

復帰前の沖縄保険制度創設事業では、県医師 会稲福全志会長に、東京から労を惜しまず献身 的精力的に協力助言なされた。日本医師会武見 太郎会長の下、常任理事の立場で、頻繁に来沖 して日本の医療保険制度の欠点を指摘しつつ、 医師会や米国民政府、琉球政府、立法院議員に 助言指導する姿は、尋常ではなかったと稲福全 志元会長は述懐している。

昭和52(1977)年4 月30 日、沖縄で慈恵医 大の同窓会があり、当時4 階建て米国民政府お さがりの沖縄県庁を、県立一中時代の同期生平 良幸市知事にご挨拶のため訪問された。当日エ レベータは故障、義足での階段は辛かったよう である。自身の俳句に「義足のきしみ夜半も曳 きずりきりぎりす」とあるように、左大腿骨炎 の古傷あとから「腫瘍」が生じ、左脚大腿中央 から切断手術され、義足であった。

東京でクリニックを開業しているご子息の話 によると、沖縄県庁4 階の階段を降りたとこ ろ、ロビーで急に苦しみだし「稲福先生を呼ん でくれ」が最後の言葉だったらしい。稲福先生 とは、医療保険問題で苦楽を共にした稲福全志 元県医師会長のことである。おそらく心筋梗塞 と思もわれる急死であったと述懐されている。 享年69 歳。

故稲福全志会長は「遠藤石村句碑」除幕式 で、遠藤朝英先生は、69 歳の早世であったが、 多才で普通の人の何倍も活動し、故郷の沖縄の ために力の限りを尽くしてくれたと挨拶されて いる。沖縄県医師会史の苦労話しと併せ読むと 胸が詰まる思いである。

私が三和中学生の頃、10 周年記念式典のお り来沖、学問に国境なしと、励ましの講演と同 時に遠藤朝英作詞、渡久地政信作曲の贈られた 校歌は、今もなお歌い継がれている。

「太平洋の 汐鳴りに
 青空深く 澄むところ
 もえる望みを 世界に架けて
 学ぶわれらの 意気高し
 平和が理想のわれらが母校 三和中学校」

昭和38 年日本医師会最高優功賞受賞。
没後、勳四等瑞宝章叙勲を受章。
郷里の偉人―医師・俳人「遠藤朝英石村」―尊敬と憧れをもって紹介した。