琉球大学大学院医学研究科救急医学講座 久木田 一朗
私たち第10 陣医療班は、10 − 1 陣(4 月28 日〜 5 月5 日)の私と看護師の長濱貴子さん、 10 − 2 陣(4 月30 日〜 5 月7 日)のまんま家ク リニック久高学先生、北中城若松病院看護師の 中村泰裕さん、沖縄県医師会の山城政さんの5 名であった。JAL904 便にて午前に那覇空港を 立ち、14 時羽田発のJAL4749 便(震災臨時 便)で花巻空港着、そこから花巻のタクシーで 110km 離れた大槌町の城山体育館仮設救護所 に到着した。自分たちの荷物以外には以前のよ うな段ボールの山は全くなかった。長濱さんは 4 陣ですでに出ていて、2 回目の医療班であっ た。出発前に県医師会館にて入念なミーティン グがなされ、玉城信光先生、第2 陣で行った桑 江先生、県医師会の渡嘉敷さんなどから十分な 情報を得る事ができた。桑江先生は後から2 回 目自主参加で大槌でも会うことになった。
仮設診療所で最初に田名先生からレクチャー を受けた。田名先生は、避難所で健康講話をさ れたそうで、オーストラリアから医療支援で来 て1 ヶ月ほどになる琉大3 期生の山内肇先生が 城山診療所便りに盛り込み、たいへん立派な第 1 号が出来ていた。城山診療所便りは「桜の季 節になりました」の見出しの下に城山の山桜の 写真があり、ほんとに桜が満開であった(写真 1)。山内先生は避難所の小中高生に英語を教 え、夜の見回りで子供たちに見つかると、「テ ィーチャー、ティーチャー」と慕われていた。 避難所は夜間照明が明るくはなかったが、子供 たちは勉強をして、遊んで、元気であった。6 月から琉大病院救急部に赴任予定の合志先生 (産業医科大、脳外科出身、9 − 2 陣)がいた。 宮古に救急搬送した患者さんの家族を深夜送り 届けたそうである。合志先生には避難者も言い たいことをなんでも言えたようである。大学の 先生というと、がちがちの専門医というイメー ジがあるが、避難者の話を良く聞ける医師とし て活躍していた。
写真1
命からがらの被災をされた地元の道又先生が 同じフロアーに寝袋で寝ながら、ずっと一緒に 診療されていた。道又先生は私と卒業が同じ年 で、岩手医大の呼吸器教室で喘息などの実験、 研究をされたとのことであった。道又先生も地 元の人々の信頼が厚く、避難所外から沢山受診 する患者さんがいた。もう一人、藤丸先生とい う若い先生は出身が秋田で、いちど避難所で一 緒に泊まって、消化器が専門だそうで大槌が好 きになって開業したお話など伺った。
もう1 つこの避難所仮設診療所の特徴は、宮 崎市保健師会の皆さんと役割分担して活動した こと、同じ部屋の横でつくし薬局という民間薬 局が活動してまったく普段、あるいは普段以上 の便利さで薬処方ができたことであろう。つく し薬局さんは、被災時にコンピュータを持ちだして、患者さんの処方データを残すことができ たことで震災後の医療に大きく貢献していた。 従って、毎夕のミーティングには沖縄県医師会 チーム、宮崎市保健師会チーム、つくし薬局さ ん、道又先生がメンバーであった。
大槌に来て3 つほど良いニュースを聞いた。 その1 つが、県立大槌病院仮設診療所のオープ ンである。4 月25 日よりオープンし、まだ入院 はできないが、レントゲン検査、血液検査、心 電図、超音波検査ができるようになった。その 仮設診療所を私も2 回手伝った。場所は小槌神 社内の上町集会所というところで、城山からお りて歩いて10 分ほどのところであった。
広めの玄関から靴を脱いで上がり、診療エリ アに行くと4 つほどのブースに分かれて、外来 診療ができるようにカーテンが敷いてあった (写真2)。よく見るとカーテンレールが普通の 入院ベッドの周りのカーテンレールで、柱は点 滴台を使ってある。これが大槌病院で残った3 階部分のカーテンレールだと、そこの看護師さ んに聞いて、なんという生きる力であろうかと 感激したものである。なにしろ大槌病院は津波 に遇って2 階まで流され、その前に職員で60 名(うち30 名が寝たきり)の入院患者を屋上 に挙げ、それから、2 日間を真っ暗で、寒く、 水もでない、周りが火の海で、余震がやまない ところを生き抜き、とうとう自力で高校の避難 所へ移動した人達である。大槌は津波のあと大 規模な火事がおき、避難所のある城山の山も一 部燃え(写真3)、町のがれきも鉄骨まで焼けた跡が残る惨状であった。よくぞこの人たちは生 き延びたと思うのだが、ご本人の看護師さん方 は家も車も流されたと言いながら、沖縄から来 た私と淡々と普段の様に診療の手順をこなして いたのである。
写真2
写真3
2 つ目の嬉しいことは道又先生の仮設診療所 の準備が進み、開業が決定したことであった。 ある晩、私と山内先生がそこの風呂にお呼ばれ することになった。建築してあまりたたない普 通の民家であった。台所兼食堂に机を並べて、 受付、予診、診察、薬局と患者さんが向きを変 えれば歩かなくてもすべて済むような作りであ った。職員のユニフォームも作られており、や わらかいウグイス色で診療所にぴったりと思っ た。沖縄県医師会より開業祝いの木作りのプレ ートと泡盛の甕があって、沖縄県医師会の気持 が伝わってきた。その日久しぶりにゆっくり家 庭のお風呂に入れてもらえたのは生涯忘れられ ない。
3 つ目の嬉しかったことは、避難所の自主的 炊き出しが宮崎の保健師さんたちの努力ではじ まる算段になったことである。避難所の皆さん は見た目元気そうにしているが、風呂は歩いて 行くには無理な弓道場の自衛隊災害用風呂、避 難所内はプライバシーの確保は難しい、その上 食事が自分らの煮炊きの手が入らない支給の食 事であるとまるで3 重苦である。最初は履く靴 もなく、どこからか持ち出して皆に配給したら しい。もう5 月の連休と言う時期にまだこのよ うな心配をしないといけないとはと思うが、ともかく1 歩ずつ前に進むしかないであろう。
沖縄大学の学生をボランティアとして連れて きた山代先生方とも避難所で会った。沖縄の NHK も連れた大掛かりなもので、バスで移動 したそうである。足湯、マッサージ、沖縄の獅 子舞をするとのことで喜ばれたことであろう。 私は地元の人が鹿踊(ししおどり)をがれきの 中から見つけた太鼓をたたき、高校生が激しい 鹿の角突き合わせの踊りをしているのを見て、 避難者の方々がほんとに元気を出しているよう に思えた。最後の日には地元の虎舞を見たがこ れも元気が出た(写真4)。山代先生の連れて きたNHK から電話、写真でのテレビ取材を受 けて、どうすれば復興しますかと問われたが、 やっと今頃復興庁ができるようであり、国も本 格的にはこれからであろう。作家の井上ひさし はこの地が好きだったそうで、「ひょっこりひ ょうたん島」のモデルの島が蓬莱島として目の 前にあり、地元の人が好きである地域が復興し ないはずはないと思った。
宮古で医療支援を続けた沖縄県のチームも4 月末で撤収するとのことで県福祉保健部長宮里 先生、県立中部病院雨田先生が来た上、救急車 を置いていった。その後は釜石の本部ミーティ ング、買い出しにその救急車を使うことになっ た。岩手県医師会長の石川育成先生も陣中見舞 いに来られ、常任理事の安里哲好先生はまった く個人的に来られたとのことであったが、ちょう ど人手不足であったので、診療を手伝って頂い た。久高先生には鍋奉行をして頂き、おいしか った。山城さんはいつも夜遅くまで報告書作り にはげみ、いちばん寝ていなかった。短い期間で はあったが、多くの経験をさせて頂き、被災地 の皆様に少しはお役に立つことが出来て、活動 の主体となった沖縄県医師会に敬意と感謝をさ さげつつ、1 日も早い現地の復興を祈りたい。
写真4