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私が経験した被災地医療
〜沖縄県医師会医療班第9陣参加を通して〜(第9陣報告)

田名毅

首里城下町クリニック第一 田名 毅

(はじめに)

東日本大震災が発生し、100 日以上が経過した。

生中継される津波の映像は遠い沖縄にいる私 たちにも、大きな衝撃を与えた。夕方には沖縄 にも津波が到達するという情報があり、診療終 了と同時に自宅に向かった。「まずは家族に会 わねば」誰もがそう考えたに違いない。そし て、時間がたつにつれて被害の甚大さを知り、 我々医療者に何ができるか、と会員の誰もが考 えたと思う。沖縄県医師会は出口先生の迅速な 提案を契機に全国都道府県医師会の中で最も早 く医療班を形成し、岩手県に到着した(沖縄県 医師会報既報)。そして、長嶺先生(同じく既 報)をはじめとする会員がそれに続き、合計79 名の医療従事者が医療班として岩手県大槌町で 医療活動を行った。私も第9 陣として参加させ て頂いたので、今回の経験を報告する。

(出発を前に考えていたこと)

(1)恐怖心:私が出発した4 月下旬は、その前 の週に福島を中心に余震が頻発していた時期 であった。手上げしたものの出発日が近付く につれて、怖さを感じていた。

(2)避難所のイメージ:すでに40 日以上が経 過し、避難所におけるライフライン、食生活 など住環境は既に整備されはじめ、炊き出し などいらなくなっているのではと考えていた。

(3)医療面で必要な事:被災者は高齢者が多く 含まれているとのことであったので、生活習 慣病などの慢性疾患管理が重要になっている と考えていた。また、喪失感から来る抑うつ 気分をもつ方が多く、避難者のメンタル面の 問題が大きくなっていると考えていた。

(4)今後の方針:沖縄からの医療班が長期に滞 在を継続するには、人材配置、費用的な面で 限界があると考えられたので、徐々に地元の 医療機関につなぎ撤退の道筋をつけていくこ とも医療班の重要な役割と考えていた。

(避難所における医療班の生活)

沖縄県医療班は、大槌町の中では最大数であ る300 名余りの避難者が滞在していた城山中央 公民館において、拠点型診療を行っていた(図 1)。1 陣ごと1 週間の期間、避難所に滞在する方 式であった。マットレスを敷いた上に寝袋に入っ て夜を過ごした。食事はレトルト食品もあった が、車で20 分ほど離れた釜石市での災害対策本 部医療班の会議に参加する時にスーパーに買い 出しに行くこともできたので、女性陣を中心に簡 易のガスコンロを使った手作りのメニューも頂く ことができるようになっていた。食事には不自由 しなかった。トイレは避難所の方と共同で水洗が 可能であった。お風呂は避難所の方も自衛隊の お風呂に1 週間に1 回入るのがやっとという状況 であり、我々は清拭でしのいだ。電気は使えたの で、パソコン、テレビは使用可能であった。被災 地の情報はテレビのニュースで入手できた。

(図1)

(図1)静かな湾に津波が押し寄せてきた・・・・。被災地か ら300m ほどの高台に我々が滞在した城山中央公民館があっ た(図の中央)

(医療班の仕事)

1.外来診療:避難所内の患者と津波の被害を 免れ自宅から訪れる避難所外からの患者さんが 対象であった。私が到着した当時はまだ県立大 槌病院をはじめ地元の医療が再開されていなか ったので、拠点型の沖縄の医療班は地域から頼 られている部分があった。ご本人も被災した地 元の開業医である道又先生が沖縄の医療班とと もに診療を行っていたので、道又先生を頼って 来所する方も多かった。疾患の多くは、高血 圧、糖尿病などの生活習慣病の治療薬を希望し て来院していた。上気道炎、不眠症などの来院 もあり、疾患構成としてはまさしく開業医が担 う診療内容であった。外傷患者はわずかであっ た。診療は毎日8 時半から開始し夕方6 時頃ま で行っていたが、急患に関しては断らない方針 であった。往診診療については巡回診療班が本 格的に活動していたためか、依頼が来なくなっ ていた。巡回診療班から水痘の小児症例や犬咬 傷の症例を紹介されたことがあった。また、救 急搬送した症例としては、虫垂炎による急性腹 症、急性心不全をそれぞれ県立宮古病院、県立 釜石病院に搬送した。

2.釜石市災害対策本部における会議への出 席:毎日17 時に開催され、我々の医療班から 毎回2 〜 3 名が参加した。話し合うというより は釜石市、大槌町に入っている各医療班からの 情報提供とその情報を共有することが会議の主 な目的であった。他にはこの場に出席している 保健所健康推進班長に避難者の栄養を配慮した 食事面の改善、伝染性疾患が発生した際に使用 する隔離室の確保について相談したり、リハビ リテーション班に城山中央公民館への往診を強 化して欲しいなどの依頼をすることができた。 皮膚科の桑江先生が沖縄医療班としてゴールデ ンウィーク期間中に皮膚科診療を行うことを、 この会議でチラシを配り周知することもできた。

3.宮崎保健師チーム、薬局とミーティング: 毎日18 時に避難所に設置された薬局で開催し ていた。

医療班や薬局からその日の診療から得られた情 報を提供し、その後避難所内を巡回している2 名 の保健師からは体調不良者やメンタル面で気にな るケースについての相談などがあった。医療班の 診察で、不眠症のために睡眠薬を処方した方がい た場合は、保健師チームに情報を提供するなどし て、医療、保健の連携を行うように取り組んだ。 また、この会議で保健師より、感染症およびメン タル問題の対策として避難所内で健康講話をして ほしいという依頼があり、保健師が手書きで作成 したトリノコ用紙の資料を利用して私が講話を行 った。避難所内を4 つのブロックに分け、それぞ れ15 分、合計1 時間実施した(図2)。翌日にう がい水の減り方が早くなったり、メンタル面の不 調を保健師に相談する方も増えたようであり、一 定の効果はあったようである。

(図2)

(図2)宮崎県保健師と共同で行った避難者向け健康講話の様子

4.避難所内巡回:毎日20 時に医療班が行っ た。我々より前陣の医療班が、早めの気付きと 気になる方々のチェックをすることで夜間救急 搬送する症例を減らすことを目的に実施し始 め、それを引き継いだ。遅い時間であり、プラ イバシーエリアに入ること自体申し訳ない気も したが、これまでの医療班の功績があるため、 避難者の方々は皆巡回の際は会釈して下さっ た。日中は診療や各種会議があるので、避難者 の方々とは診療以外で直接接触する機会が少な かった。この巡回ではアルコールを飲む男性が 意外に多いということを知った。その理由が肉 親を亡くした寂しさを紛らわすためだというこ とも知った。また、同じエリア内の方々をお互 い気遣うなど、避難者の方々の優しさに触れる 貴重な機会でもあった。巡回の際、枕もとに残 されていた食事をみて、栄養面の問題(炭水化 物が多く蛋白質や野菜が少ない)を助言するこ とができたことも大きかった。

5.報告書の作成:避難所の様子は日に日に変化するので、これから来る医療班への参考にな ればと考えて報告書を事務の方と作成し県医師 会へメールで送った。私自身も出発前に現場の 様子を知ることができれば準備に役立てること ができると感じていたので、1 日の仕上げとし て重要な任務と考えていた。

(医療の復興)

私が現地に入った頃、ちょうど以下の変化があった。

4月26日 県立大槌病院仮設診療所開設、元来の常勤医3 名で診療再開
5月6日 道又内科小児科再開、藤井小児科医院再開

避難所で一緒に診療を行い、寝食をともにす ることがあった道又先生の診療再開は、沖縄の 医療班にとっても大きな出来事であった。大槌 町の医療機関が壊滅的な被害を受け、一番大変 であった時期の医療を沖縄の医療班が支えたこ と、そして地域医療の復興に立ち会うことがで きたことは最も意義深いことであり、今回参加 した医療班全体の一番の功績と考える。

(現地でわかったこと)

(1)余震は2 回経験したが、やはり怖かった。 最初に海の方から地響きがきこえ、その後揺 れを感じた。幸い時間が短かったが、避難者 の方々が感じている余震に対する恐怖心を体 感した。

(2)すでに50 日が経過していたが、避難所の 食事の栄養面の問題、入浴をはじめとする住 環境の改善がまだまだ必要な状態であった。 ニュースにでてくる炊き出しも一時的なもの であり、我々の日常生活に置き換え食生活を 考えた場合、まだまだ十分とは言えなかっ た。その他、高齢者が避難所で寝たきりにな ってしまうという現実もあった。地元の保健 師も懸命に努力していたが、行政全体のスピ ード感が欠けているように感じた。その後の 報道をみても、町長や役場の主要なメンバー を失ったことがこの町の復興を遅らせている 最も大きな要因であった。国や県はそれぞれ の自治体の被害の状況に合わせた支援を行う べきで、大槌町に対してはもっと積極的な行 政支援が必要だったのではないかと考える。

(3)徐々に医療機関は復興しはじめていたが、 避難所から診療所まで歩いて通院できない高 齢者をどうするかという点については、我々 の班、その後の班でも話題になったが対策が とられるまでには時間がかかったようだ(図 3)。混乱した現場においては、行政機関に伝 えたいことがある際には、口頭の進言だけで はなく要望書の形で文章化して伝えることが 重要であったと考える。

(4)今は応援の保健師・こころのケアチームの 活躍できめ細かい対応ができている。今後仮 設住宅などに移った際に高齢者のみならず肉 親を失った方々への支援を、今後どう継続し ていくかが、課題と考える。

天災の前に我々は無力である。しかし、人間 だからこそできる尊厳をもって自然に立ち向か いつつ、被災者に寄り添い、共感する姿勢で医 療者の役割を果たすことが我々の使命ではない かと考える。それぞれの立場で震災と向き合い ながら、医療者としてできることを考えていき たい(図4)(平成23 年6 月30 日記)。

(図3)

(図3)避難者の中に高齢者がしめる割合は多く、気持があっ ても被災現場に行くことができない。避難所がある丘から49 日にあたる4 月29 日、花が手向けられていた。

(図4)

(図4)帰る前に共に過ごした「同志」と