沖縄県医師会 > 沖縄県医師会の活動 > 医師会報 > 8月号

東日本大震災災害救助医療班の活動報告(第8陣報告)

大西勉

ハートライフ病院 大西 勉

4 月18 日(震災39 日目)第8 陣として那覇 空港を出発。8 時間余りをかけて岩手県大槌町 の城山体育館へ入りました。

途中釜石市内を通って海岸線を北上するルー トをとりましたが、釜石市内のある一点からそ の風景が、ごく普通の町並みから瓦礫の山へと 一変しました。津波に襲われた所とそうでない 所の被害の差は歴然としたものでした。

大槌町の城山体育館は“城山”の名のとおり 小高い山の中腹にあり、奇跡的に被害を受けな かったため、避難所となっており、その当時ま だ約300 名の方々が避難しておられました。私 達が到着したとき、体育館入り口の1 本の桜が 満開でした(写真1))。

写真1)

写真1)

眼下の町は津波と火災で跡形もない状況で、 幹線道路の瓦礫は片付けられていましたが、そ れ以外はまだ手付かずの状態で、1 ヶ月以上が 経過していたにもかかわらずまだ建物の焼け焦 げた建物の臭いが立ちこめていました。

私達が到着した時点で、電気は完全に復旧し ていました。水道もほぼ復旧していましたが、 完全とは言い難い状況でした。

食事に関しては予想より良かった(?)と言 えます。毎日釜石市内の災害対策本部へ報告に 行かねばならなかったのですが、本部の隣にある スーパーが無事で、買出しすることができたた め、多少なりとも新鮮な食糧を入手できました。

夜は寝袋と毛布を診察室の床に敷いて雑魚寝 でした(写真2))。

写真2)

写真2)

4 月とはいえまだまだ寒く、霙(みぞれ)が 降る日もありました。

以上のような環境の中、翌日から診療に参加 しましたが、患者さんの8 割は慢性疾患で薬が 切れてしまった方で、お話を聞きながら処方箋 書きをするのが主な仕事でした。幸いにも診察 室と同じ部屋に薬局が入っていたため内服薬に は苦労せずに済みました。

大半の方が精神的な問題を抱えておられたた め、診察というよりは会話に重きを置いた診療 となりました。体育館には宮崎県から派遣された保健師さんのグループが私達と同様な形で常 駐されており、彼らから得られる避難者の方々 に関する情報が診療上大いに役に立ちました。 また、体育館内には町役場機能がそのまま避難 設置されており(町の職員も避難者です)毎日 私達、薬局職員、保健師そして大槌町の職員が ミーティングをして避難所内の問題を話し合い ました。医療に関してのみ言えば他の避難所よ りも恵まれた避難所であったと思います。しか し、元来体育館と公民館であるため、避難者が 生活するには劣悪な環境であることは間違いあ りませんでした。食堂、調理室、シャワー室そ して洗面所と日常生活に必要な設備が皆無であ るため、ここでの長期間の生活は避難者の方々 を疲弊させるだけだと感じました。診療所に来 られる方たちの多くは精神安定剤を必要とする 状況でした。

私は今回派遣医師の中で唯一の産婦人科医で した。産婦人科医が災害現場へ出向いてもさほ ど役には立たない。それを承知で今回参加を希 望しましたが、実際避難所とその周囲には妊婦 さんはほとんどおられませんでした。1 週間で 診た妊婦さんは2 人だけでした。ただ、婦人科 疾患の患者さんは結構おられて多少は役には立 ったかと思っています。

1 週間の診療所生活はあっという間でした。 診療所を離れる前日、時間を頂いて大槌町内と 隣の吉里吉里地区を見てきました。JR 大槌駅 は駅舎の面影はなくかろうじてホームだけがそ こに残っている状態でした(写真3))。街中は 堤防の決壊と、地盤沈下で流入した水が引か ず、いたる所冠水した状態でした。県立大槌病 院もその周囲がまだ冠水した状態でした。吉里 吉里では報道でも紹介された民宿の屋根に乗っ た遊覧船を見ましたが、テレビの画面からでは 感じなかった圧迫感を感じさせられました(写 真4))。

診療所を離れる当日、ようやく大型車両によ る瓦礫の運び出しが開始されましたが、復興ま での長い道のりを感じながら大槌町を後にしま した。

写真3)

(写真3);大槌駅から避難所を望む)

写真4)

写真4)