山内 肇
僕は現在西オーストラリアの南西部バンバリ ーという街に住んでいる。医師を辞め家族とと もに移住して早15 年目。長い間医療の現場から 離れて生活していたが、3 年前に現地で医師に 復帰し、今は地元の病院の内科病棟で働いてい る。身分はいまだ研修医。将来の目標である家 庭医になるためには、まだいくつかの試験を受 ける必要がある。先はまだまだ長い。仕事と家 庭と試験勉強、これがこの三年間の生活だった。
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2011 年3 月11 日。その日は仕事で朝8 時か ら夜11 時までの朝夕の連続シフト。短期入院 の患者さんの担当だった。その日の午後、同僚 のマットが「ハジメ、日本で大きい地震があっ たの知ってるか?」とちょっと慌て気味に言っ てきた。その前日と前々日に東北でけっこう大 きな地震があったことを知っていた僕は「あ あ、しょっちゅうだよ」と応えたのだが、「違 う違う、津波だよ、津波。すごいことになって るんだよ!」と、僕をラウンジに連れて行く。 奥のテレビに映っていた映像。愕然とし た・・・。
その夜は、どういうわけかほとんどコールが なく、ぼくは11 時のシフト終了までほとんど テレビの前にいて、次から次と流れてくる映像 を見続けていた。その夜の帰り、延々と続く真 っ暗な直線道路に車を走らせながら、僕はずっ とあの津波のシーンを思い返していた。
−−−とにかく行こう。
それが結論だった。すぐに行こう、そうだ、 明日の便で飛ぼう。何を持って行くか、どうや って行くか、現地では何が必要なのか、どれく らいの期間が必要か、現地に入るにはどうすれ ばいいのか・・・、そういったことがグルグル と頭の中を駆け巡り、「行かねば」ということ 以外の考えがちっともまとまらない。しかも、 今現在、あの地震と津波を受けた人々がどうい う状況でいるのかということを思うだけで、胸 まで痛くなる。頭も心も沸騰しているかのよう な状態だった。
翌日は幸い休日だった。まずは冷静になろ う。事態はどうなっているのか、自分にできる ことは何か、それを実行に移すためには何が必 要なのか。それらをリストアップし、インター ネットを使っていろいろな人と組織にコンタク トを取る。なぜなら、オーストラリアにいる一 人の日本人医師には、なんのバックアップもな く、なんのツテもないからだ。突然現地に入っ たとしても、一人では何もできない。それどこ ろか、邪魔になるだけだろう。各地の支援団体 や東北三県の医師会や病院など、何カ所もメー ルを送り、医師受け入れの可能性を打診した が、ほとんど返事がない。あっても、必要あれ ば後日こちらから連絡しますという返事ばか り。そりゃあそうだろう、支援団体はそれぞ れにネットワークがあり、現地の病院はそれど ころじゃないはずだ。煩らわせてしまったと後 悔。自分の立場がなんとも頼りなく、気持ちば かりが空回りしていた。
ところが、昔の同僚や友人らを伝っていくう ちに、沖縄県医師会が医師を派遣していること を知る。「私を働かせて下さい、働きたいんで す!」と、まるで「千と千尋の神隠し」のセリ フのような勢いのメールを送ると、当初怪訝そ うな対応だった事務局も、では第7 陣の一週間 をと返事をしていただいた。
これはほんとうに嬉しかった。県医師会の会 員でもなく、ましてや沖縄に住んでいるわけで もない僕を受け入れてくれたのだ。
そこから先は急転直下。家族と職場にしばし のサヨナラを告げ、3 月下旬、僕は一人日本に 戻った。滞在期間は、最低6 週間、場合によっ ては三ヶ月という予定だ。関東で妻の弟から車 を借り、たくさんの友人知人から預かった支援物資を載せて、三日後単身東北に向かった。
物資を満載した「マイカー」
でもまだ、確たる予定が立っているわけでは なかった。沖縄県医師会からの依頼期間は4 月 15 日から22 日までの一週間のみ。当初のぼく の考えは、宮古市のある診療所のサポートに他 の期間を費やすつもりだった。あるいは近隣の 病院で医師を募集しているという話を聞いても いたし、プライマリ・ケア学会などの派遣にも 応募していたし、そういったいくつかのオプシ ョンを持ってはいたが、どれもキッチリとした 予定ではない。
でもとにかく現地に入ろう。情報を外で待っ ていても、この混乱した状況では何が正確で何 がそうでないかすらわからない。しかも日々そ れは変化している。
4 月2 日。まず僕は大槌町に入った。城山体 育館避難所で、古くからの友人である山代寛ド クターに会う。彼も沖縄県医師会からの派遣医 師だ。大槌や宮古、その近隣の情報がきっと得 られるにちがいない。
それにしても大槌の被害はひどいものだった。津波の被害というよりも、僕にはそれが爆 撃の後のように見えた。しかも徹底的に破壊し 尽くされた街だ。ガレキに埋め尽くされ、かろ うじて残ったコンクリートの建物は津波の後の 大火災でどれも黒く焦げている。中の鉄筋が飴 のように曲がった電柱。ひしゃげた車。
ガレキに覆われた大槌町
旧交を暖める間もなく、山代ドクターに避難 所周辺を案内してもらった。城山体育館は丘の 上にあり、町が一望できる。眼下に広がる風景 に息を飲む。その景色のすぐそばで避難所生活 をする多くの人々。一階の体育館、二階の武道 場には人がひしめき合い、しかも役所機能が移 転されているため人の出入りが激しい。被災後 3 週間が経っていたが、避難所はまだまだ混沌 としていた。
城山体育館避難所
炊き出し風景
救護所には山代ドクターをはじめ、県医師会 からの派遣メンバーが忙しそうに働いていた。 患者さんもひっきりなしだ。一通り挨拶をした あと、積んできた救援物資を集積場に運び入れ る。午後からは山代ドクターとともに保健師さ んと往診に出る。
その夜僕は、救護所の応援をなされている地 元開業医の道又先生と話した。道又先生はご自 分の診療所と自宅を津波で壊され、自身も避難 者だ。僕は、すべての経緯と自分の状況、そし て6 週間ほど滞在可能ということを話し、その 上で、ここに僕がいてもかまわないかというこ とをざっくばらんに尋ねた。「もちろんですよ。 いてくださいよ。やることはいっくらでもあり ます」人懐こい笑顔で、道又先生にそう言って いただき、僕はとても嬉しかった。山代ドクタ ーや他の県医師会メンバーにも了承を得る。居 場所ができたことでほんとに安心した。エキス トラ的な存在ではあるが、とにかくこれで仕事 に集中できる。
その翌日から5 週間、僕は城山体育館避難所 内救護所で働いた。第4 陣から第10 陣までの 派遣メンバーとともに過ごした日々はどれも貴 重で、多くの方々からいろんなことを学んだ。 特に道又先生を初め地元の先生方には、地方医 療に対する真摯な態度と地道な活動を支える 「肝っ玉」のようなものを見せてもらった。腹 をくくった人間の強さとでも言えようか。唯一 の病院とすべての個人医院を失った大槌町で、 地方医療を一からまた立ち上げようとする姿に 頭の下がる思いだった。
第4陣、大槌町保健師の方々、道又先生(右端)
「エキストラ」の自分ではあったが、唯一役 に立ったと自負できることがある。それは、長 く避難所にいたということだ。おかげで、患者 さんのみならず、避難所の住民のほとんどと顔 見知りになった。地元の保健師さんたち、宮崎 市派遣の保健師さんたち、つくし薬局の方々、 町役場の職員たち、そして避難所に出入りして いるボランティアの面々。たくさんの人たちと 知り合い、大槌町全体の地理と状況も大まかに 把握していたので、県医師会からの新しい派遣 メンバーに対してオリエンテーション役を果た すこともできた。なにか問題が生じた時に、こ れは誰に相談したらいいかとか、あっちとあっ ちをつなぐとうまくいくだろうとか、以前こう したことがあるとか、そういったことも見える ようになった。
5 週間の避難所の状況を顧みると、医療(治 療と言い換えてもいい)そのものの需要より も、予防医学や環境医学の必要性に重点が移っ ていったと言える。派遣チームの活動も明らか に変化していった。宮崎市保健師や住民らとの チームワークで、避難所の生活はある程度改善 したと思うが、しかしそれでも依然厳しい状況 が続いていた。特に食事の問題は深刻なままだ った。考えつくいろいろな人や団体に当たって みたのだが、僕の滞在中は大きな改善は見られ なかった。ビタミンとミネラルのサプリメント を大量に配りはしたが、根本的な解決ではな い。でも、嬉しい一歩があった。僕が大槌を去 る直前、住民たちがついに自分たちの手で調理 を始めたのだ。住民自治がようやく始動したか と皆で喜んだ。
長い5 週間のできごとをここに細かく記すこ とはできないが、それは他のメンバーの筆に預 けたい。オーストラリアに戻って二ヶ月が経と うとしているいま、僕はいつもの仕事に戻り、 いつもの生活に戻った。正直言うと、あのとき の感情や気持ちは日常生活に埋もれつつある。 しかし一日たりとも大槌のことを忘れたことは ない。避難所の方たちの生活、そこで生きる 人々、それを支える多くの人たち、そしてガレ キに覆われた荒涼としたあの風景。それを思い 出すたび、身が引き締まる。「日常」という言葉 の持つ有り難さを改めて知る。いまとなっては 多くのことはできないが、彼の地の人たちに一 日も早く安息の日々が訪れることを祈っている。
大槌町での活動を続けるにあたって、僕は沖 縄県医師会をはじめ多くの方々の助けをいただ きました。この場を借りて、心よりお礼を申し 上げます。ありがとうございました。
なお、僕の活動の詳細は以下のブログにあり ます。ご参照いただけると幸いです。
「帰国支援計画」(http://kikokushien.blogspot.com/)