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震災地を訪ねて(第6陣報告)

高江洲信孝

北部病院 高江洲 信孝

医療支援という大義名分を背負って、町長以 下多くの町職員を失い、自治の麻痺した町、大 槌町へ花巻空港から3 時間かけて4 月10 日夕 刻到着した。戦後生まれの私にとって第二次世 界大戦はもちろん朝鮮戦争さえ知らず、ベトナ ム戦争は遥か彼方の記憶の中に眠ったままで、 戦場の様子は、映画や記録フィルム、小説等々 で想像するしかすべはないが、被災現場が目に 飛び込んできた瞬間、私の想像する戦場が目の 前の光景と一致した。快晴と思われる町の空気 は淀み、粉じんや花粉と入り混じって霞がかか ったようで途端に目が痒く咳込む、その先に、 テレビや新聞で繰り返し見せつけられた風景が 姿を現した。まさに爆弾が投下され、瓦礫の山 となった戦場そのものを思わせる町、目が痒み 霞んで見えた光景は、淀んだ空気のせいだけで はなく、私自身の涙の影響もあったのだと理解 できた。

避難所となっている大槌町中央公民館へと一 歩足を踏み入れた瞬間から、私自身被災者とな ったような錯覚に陥った。空気のような存在で しかなかった日常生活−スイッチを押せば明かりがともり、蛇口をひねれば水が出、トイレへ 入れば水が流してくれる− 3 月11 日14 時46 分まではそうであったのだ、我々と同じよう に。公民館の中は、避難所特有の臭気に覆わ れ、生気を失い、希望を失い、そして家族を失 った人々が、ただただ狭い空間を何する当ても なくトイレと与えらえた僅かな空間を移動し、 座り横になりレトルト食品を口にする、ある種 絶望感や寂寥感は漂いながらも、何となく違和 感を感じずにいられなかったのは(変な言い方 だが)病人と思しき人達をあまり見うけなかっ たせいだったのだろうか。

当日は遅くに到着したため、一通り明日から の仕事内容についてのブリーフィングを受けた 後、我々もレトルト食品にて夕食を済ませた 後、寝袋にくるまって就寝についたのだが、余 震と寒さのため寝つけずに、まんじりと朝を迎 えることとなった。さっそく8 時頃から診療を 開始したところ、昨日抱いた違和感の原因に気 付くことになった。沖縄を出発する前、私の脳 裏にはあの阪神淡路大震災の時の医療スタッフ の仕事の内容を想像していたからだ。崩れ落ち た建物や転倒による外傷、火事による火傷、水 不足による透析患者の治療の遅れ、といったあ らゆる疾患に対応を求められるものと覚悟して いた、しかしながら現実は、マスコミ報道通り 被災地では、Dead or Alive(死者行方不明者 か存在者)の世界で、生存者は特に外傷もなく ADL もほぼ自立しているようにみうけられた からなのである。私が現地入りしたのは一カ月 後なのだが、第一陣で現地入りした先輩Dr に 聞いてもやはり同様であったのだと。実際診療 を開始してみても、ほとんどの患者さんが感冒、粉じんや花粉による鼻炎や咳の悪化、スト レス性胃炎による下痢、慢性疾患の悪化、さら には、避難所生活が長引くことによる不眠、う つ状態等の疾患が大半を占めていた。

朝から診療を開始し、夕方には釜石市の災害 対策本部へと片道一時間かけて瓦礫と化した町 中を通り、その日の患者数や救急搬送患者の状 態報告、避難所からの要望等を報告にいくのだ が、その車窓からみる風景はまさに地獄絵図の ごとく、震災当日は阿鼻叫喚の様相を呈してい たものと想像はしてみるも、その情景はなかな か実像として頭の中で描くことができなかっ た。が、しかしながら診療も一段落したころ、 一緒に仕事をする保健婦や看護師、そして地元 Dr(彼女、及び彼らも又被災者である)達と 雑談をする中で、その生々しい体験談を聞くに つれ、その恐ろしさたるや、如何ほどのもので あったのか……おぼろげながらその輪郭が垣間 見えたような気がしてきた。ある保健婦さん は、瓦礫とともに流されながら幸運にも、一緒 に流されていた家屋の屋根につかまり救助され るまでの一夜を明かしたという。腕が痺れ、ま どろむ意識の中で、ややもすると手を離しこの まま流されて死を選んだ方がどれだけ楽だろう と思い、自分の首から吊るしていたネームプレ ートを折りたたみポケットにしまう、遺体とな って発見された時に自分だと識別してもらえる ように。道又先生、地元住民に愛され、大槌駅 のすぐ目前で内科小児科医院を標榜し、まさに 町医者を地でいくような還暦手前のDr、津波 により二階建ての医院兼住宅は破壊され、本人 を含め家族五人ともに、患者さんを帰したあと で自宅二階へと避難し、じわじわとせり上がっ てくる水の恐怖と対峙しわずか30cm の隙間で 呼吸をし難を逃れたという。すべてを失い失意 のどん底にいながら毎日我々とともに寝起きし 笑顔で診察にあたる、一人一人に声をかけ励ま しながら。何だろうか?彼らをそのような行動 に駆り立てるのは。使命感?ヒューマニズム? それとも東北魂か、持って生まれた性格なの か、わたしには理解できなかった。人は実際に 当事者になってみないと本当の意味での悲哀、 苦悩、懊悩はわからないと思う、死刑廃止を声 高に訴える人々が、自分の身内が当事者になっ てみないとどのような思想の変化を表すかわか らないように。避難所で暮らす人々や患者さん と接し、毎日のように“頑張ってね”“気落ち せずに前を向いて行こうね”なんてかける言葉 の何と陳腐なことか、所詮我々は一週間もすれ ば家に帰り又普通の日常生活に戻り、遥か遠く 沖縄の地から被災地をマスコミを通じて見聞き 涙し、彼らの気持ちを慮り、募金箱を見れば募 金をする、それしか出来ないのだ。

今こそ国家のリーダーが超法規的決断をし、 まず被災者の生活を一刻も早く救済正常化し、 全世界の英知を結集して原発の終息をはかるこ とを最優先課題として取り組んで欲しい(これ は日本一国の問題ではないのだ)、Kenedy 大統 領の名言−祖国があなたに何をしてくれるのか を尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるかを考えてほしい−しかし今は違 う、日本国民は何もできないのだ祖国のため に。国家が考えてほしい、国民のため何ができ るのかを。

陛下が被災地を訪れになられた時、人々の表 情ににじめ出る安心感、畏敬の念(現職の総理 大臣とは大違いである)、日頃平和ボケした日 本人は、平時においては現職大臣に暴力装置と 呼ばれ、不倶戴天のごとく猜疑心を向けられる 自衛隊の献身的な活動、又、震災翌日には、病 院船とも呼ばれる強襲揚陸艦エセックスや空母 を宮城県沖に向かわせていち早く救助体制をと った我が国最大の同盟国アメリカ、さらには、 仮説の診療所を作り100 種類もの医療機器を残 し帰国したイスラエル等々いずれも平時のさい には様々な問題を抱え非難の対象となる人々の 努力が被災者住民を支え、危険を承知の上で瓦 礫の撤去や遺体の収容、行方不明者の捜索、自 衛隊医官による巡回診療と、どれだけの貢献を したか、地元マスメディアはあまりこのような 事実を伝えない。おそらく基地問題とリンクさ れるのをきらってのことであろう。しかし、そ れはそれとして私は純粋に感謝したい(確かに 3 月11 日以前に問題となっていたメア日本部長 による侮蔑的な発言をぼかし、海兵隊の沖縄で の存在価値を、日米同盟の強固さをみせつける ためのPerformance では?といった意見があ るのだが)。中国、ロシア、北朝鮮と不安定な 東アジアにおいて、本当の有事の際に我々日本 人を守ってくれるのは自衛隊でありアメリカで はないのか、これを機会に復旧復興と同時に国 防についても大いに議論を始めてもいいのでは ないだろうか。

今回の被災地への医療支援を通じて、私自身 日本人であることを誇りに思った。あれ程のダ メージを心身ともに受けながらも避難所では、 泣き叫ぶ人も居ず、炊き出しのさいには整然と 列をつくり、我先にと割り込む人もいない、外 国での災害シーンでみる人々の行動とは雲泥の 差である。

大槌町を離れる日の朝、気温も上がって空は 澄み渡り、春の訪れを感じさせる天気であった が、予報ではまた冷え込み、雪の可能性もある という。避難所の高台からみる町の風景は全く 震災直後と何ら変わらず、所々自衛隊や警察車 両が行き来し、瓦礫の山から何かを捜す人々の 姿が散見される。一方で、一転山の方へ眼をや ると、梅の花が咲き始め、山桜が、その蕾を大 きく膨らませて、いまにも弾け開花を迎えそう な気配である。まさか自分自身が生きている間 にこれ程の未曾有の天災人災がおこるとは思い もよらなかったし、自然の脅威はテレビの中だ けの世界であった。桜が満開になる頃、少しで も復興へ向け人々の心が癒され、前向きな気持 ちになってくれることを祈りつつ、自治の失わ れた町、大槌を後にした。