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大槌町の復旧を願って(第5陣報告)

饒波保

県医師会医療支援第5陣介護老人保健施設陽光館
饒波 保

東日本大震災から3 週間を経た4 月3 日、岩 手県大槌町の医療支援のために沖縄を発った。 花巻空港から陸路で遠野、釜石を通って目的地 である大槌町に向かった。道路脇や周囲の山々 には雪が残り、朝夕の気温は2、3 度、時には 雪の舞う寒い時期であった。

大槌町を目の前にした釜石の市街に着くとい きなり異様な光景が飛び込んできた。

つい3 週間前には人びとが生活していた家 は、あってはならない所にあり、中は瓦礫で埋 まっていた。この世の出来事ではない、夢でも 見ているようでただ唖然とするばかりであった

リアス式の三陸海岸は入り江に流れ込む川に 沿って集落が並び周囲は急斜面な山である。津 波は防波堤を破壊して家が密集した港に近い町 を襲ったあと川を登り、堤防を越え、津波到達 予想地点をはるかに超えた奥地まで呑み込んで いた。津波に呑み込まれたところには何ひとつ 原型をとどめて残ったものはなかった。

目的地の大槌町は災害対策会議中の津波で町 長をはじめ役場職員を失っていた。津波に呑み 込まれた地域を見下ろす高台に大槌城址があり その途中の公民館に県医師会仮設診療所が開設 されていた。

被災から3 週間が過ぎ、避難所の方々は不便 な環境、ゆきわたらない救援物資、咳をするに も周囲を気にする状況に、次第に疲労とストレ スのため、食欲がなくなり点滴を希望する人が 増えていた。そんな中、仮診療所の若いスタッ フたちは、どこから手に入れてきたのか、帽子 掛けを利用して点滴スタンドを作っていた。

仮診療所では訪れる患者のほかに保健師から の依頼を受けて1 日に数件の往診を行っていた。

私が往診した80 歳の男性は、震災前は要介 護2 で屋内を壁伝いに歩行していたとのことで あったが往診したときにはすでに寝たきりで四 肢は拘縮が始まっており、奥さんの介助で食事 をし、仙骨部には浅い褥瘡が出来ていた。

津波で2 人の息子を失ったという老夫婦は「1 日中避難所にいて、座ったり横になったりして いる。」との情報であった。「明るいうちは出来る だけ避難所の外に出て散歩や運動で体を動かし て下さい。」と声をかけた。次の日の朝、老夫婦 は避難所を出て、私と短い朝の挨拶を交わしたあと、公園のベンチに腰を掛けた。後で気づい たが、おばあさんはベンチに腰を掛け市街地の 方を向いていたがおじいさんはおばあさんと向き 合って立ったまま、街を見ようとはしなかった。 そして、数分後には再び避難所に戻って来た。 「もうお帰りですか。」と話しかけると、「(瓦礫に 埋もれた)街は見たくない。」とポツリと言って いた。息子を呑み込んだ津波が残した瓦礫に埋 まった街を直視できないでいたのである。

避難所だけではなく在宅で、医療の目の届か ないところにはこのようなたくさんの災害弱者 がおられると思われる。お年寄りが一度失った 機能を再び獲得するのは容易なことではない。 いわゆる“生活不活発病”対策の重要性が増し てくると思われる。

城山公園の東斜面の墓地に建立された仏像は 地震で倒壊することなく「復旧の一部始終を見 ておこう。」とでもお思いなのか、瓦礫と化し た大槌市街を見下ろしていた。

東北の各地では毎年3 月3 日には大掛かりな避難訓練があり、今年も訓練をしたばっかりだっ た。避難所で暮らす人に聞いた話で「津波の時 には、川に沿って逃げるのではなく川に垂直に 山に上れ、決して後ろを見るな、他の人のこと はたとえ身内でも考えないで“てんでこ“(てん でばらばら)に逃げろ」という鉄則があるらし い。そんなことを言っていた彼も「自分は逃げ るときに、うつ伏せになってもがいているおばあ さんを助けようとした。しかしおばあさんはその まま津波に呑み込まれてしまった。顔が見えな かったのがせめてもの救い。」とも言っていた。

公園の斜面に小さな祠があり、七福神が祭っ てあった。祠の周囲は地震で崩れ、火災で黒焦 げになっていたが、七福神はしっかりと鎮座し ており、写真に収めたあと、1 日も早い復旧を 祈って私も手を合わせた。

大槌町では全国から集まってきたいろんなボ ランティア団体が活動していた。災害対策本部 に全国各地から寄せられた励ましの言葉。手紙 がいっぱい詰まったダンボールの山を整理するボランティアもいた。整理した手紙は避難所の 方が読めるように体育館の柱や壁に貼り付けて いた。

若いボランティアは手紙の整理をしながら 「手紙の束より、札束だよね」と本音とも冗談 ともつかないことを言っていて、そばで励まし の文を読んでいた私は苦笑いした。沖縄に帰っ てからの車の中で聞いたラジオのトーク番組で 「東北に行きたくても行けない人はたくさんい る。そんな人に一番してほしいことは“義援 金”、“義援金ですよ”。お金はなんにでも化け ますから。」とある有名なボランティア活動家 が言っているのを聞いて妙に納得した。

ボランティアの中には瓦礫の中から見つかっ たアルバムから写真を剥がしてきれいに洗って 陳列している“パレスチナ子どものキャンペー ン”という団体もあり、被災された方は身内や 知り合い、友達の写真を見つけると深々とお礼 を言って大切そうに持ち帰っていた。家は失っ ても思い出はいつまでも大切にしてこれからの 復旧の励みにしたいのだろう。

朝日が昇る大槌町、のどかな生活が一時も早 く戻ってほしいと祈っている。瓦礫に囲まれた 路上で、震災後にはじめて会った友達を見つけ て抱き合って喜ぶ姿を何度も見かけた。大槌町 の住民はコミュニティの繋がりがとても強い。 東北はどこでもそうだと聞いているがみんな地 元にとても愛着を感じている。このコミュニテ ィが1 日も早く復活するのを願わずにはいられ ない。

また、仮診療所で地元の先生といっしょに診 療しながら、患者と地元の医師には強い絆があ ることがとてもよく感じられた。

今回は県立大槌病院の先生にお会いする機会 はなかったが、地元で開業している先生による と「医療過疎と言われながらも、災害前の大槌 町の医療事情は、県立大槌病院を中心に、とて も整っていた。」とおっしゃっていた。我々の 医療支援は、早くもとの医療環境を作っていた だくためにあるのだと思った。

1 週間の活動を終えて帰り道、白い可憐なコ ブシの花がちらほら咲くなか、沿道には「多く のご支援にありがとう。」、「まけないぞ岩手」 の看板をあちらこちらで見かけた。復旧へ向け て粘り強く立ち上がる東北人の力強さが感じら れ、支援に行った私が逆に勇気をもらい、日本 に生まれた喜びを感じた。ありがとう東北、あ りがとう岩手。

今回の災害には多くの自衛隊員が派遣されて いるという。大槌町でも多くの自衛隊員が行方 不明者の捜索、瓦礫の撤去に活躍しており、今 でもその一生懸命な姿が目に焼きついている。 ご苦労様です。

最後になりましたが、大槌町に医師団を派遣 するためにご支援してくださいました県医師会 員の皆様、派遣されたスタッフを沖縄から支え て下さいました事務局の方々に感謝いたします。