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沖縄県医師会災害救助医療班活動について(第4陣報告)

山代寛

沖縄大学・オリブ山病院 山代 寛

4 陣のメンバー

我々4 陣は医師2 名、看護師2 名、事務職1 名の計5 名、4 陣の先発で3 月30 日から4 月5 日まで、嶺井リハビリ病院の比屋根勉医師、フ リーランスの長濱貴子看護師、3 月31 日から4 月6 日まで、私と真榮城克匡看護師(ハートラ イフ病院)、事務員として天久台病院の精神保 健福祉士袰地敬さんというメンバーで派遣さ れた。

比屋根先生は、AMDA のメンバーとして 2001 年エルサルバドル大地震や2006 年津波後 のインドネシアでの医療活動に従事した経験も あり、4 陣のリーダーとしてふさわしい、頼も しい方。長浜さんは比屋根先生の信頼あつく、 オーストラリアの看護師免許も持つスーパーナ ース。真榮城君はやはりケニアや中越地震後の 被災地での活動経験のある、熱い心を持った好 青年。袰地君は宮古市出身で心のケアにあたれ ればと願って志願した(残念ながら大槌では事 務作業で手一杯となりもったいなかったが)ま じめな青年。そしてなぜか私というなかなか面 白い顔ぶれだった。

医療班参加に至るまで

3 月11 日、久留米でおこなわれた禁煙の講演 会に講師としてお招きいただいていたため、地 震や津波はちょうど機中での出来事だった。福 岡空港についたのが5 時前、空港は何か騒然と した雰囲気だった。テレビ局にインタビューさ れていた人に尋ねて、東北で大きな地震があっ たことを知った。その方は仙台に行く飛行機が 欠航になり、津波と火事で家が心配と言ってい たが、大きな地震があったんだなあと気になりながら、講演会の会場にむかった。珍しく満員 だった講演会が終わってホテルでテレビを見て 唖然とした。鳥取日赤に外科医として勤務する 弟からDMAT で福島に出発したという電話が 入ってきた。岩手県の宮古市にすむ妹一家とは 連絡が取れない。翌週、スペインに出張予定だ ったが、それどころではないとキャンセルのメ ールを送った。

沖縄に3 年前にやってくるまで外科医とし て、岡山県にある災害拠点病院のリーダーとし て、災害に備え年二回、県の訓練に参加、ある いは企画し、立川の災害医療センターで災害拠 点病院の研修をうけたという経歴を生かしたい と、岡山時代から親しい県DMAT、南部医療 センターの林峰栄先生に電話したところ、私の 実力をよく知る先生からは、せっかくだからス ペインにいったらよかろうと、役に立たないと 遠回しに言われ心が折れそうになった。しか し、くじけず沖縄県に「派遣するなら貴重な沖 縄県の医療資源をもちだすよりどうか余ってい る私のような人間を用いて下さい。足手まとい にならぬようできるだけ県のために被災者のた めに働きたい所存です」とメールしたところ、 医師会の医療班に参加するようにという返信を いただき、禁煙講演会でご縁のできたとよみ生 協病院の高嶺朝広先生から3 月16 日の県医師 会の会合に来るよう連絡を受けた。その会合で 第4 陣派遣がきまったことをtwitter でつぶや いたのだが、そのつぶやきをみて全く予想もし ていないところからメールがやってきた。琉大 時代から親しくしていたオーストラリアで医師 をしている山内肇君からだった。彼も被災地で 医療活動をしたいというので高嶺先生に連絡するよう返信した。

大槌での医療活動

3 月31 日、第3 陣の大湾さんの迎えのレンタ カーに荷物を積み込み花巻空港から大槌に向か った(写真1))。

写真1)

写真1)

道中ガソリンスタンドは普通に営業してお り、また釜石も津波の被害に遭っていないとこ ろは全く被災地には見えなかった。しかし釜石 駅あたりから津波の爪痕が明らかになるにつ れ、車中は重い空気になった。テレビで見てい た風景をいざ目前にすると言葉を失った。前日 から小槌川にかかる橋の手前の信号機が復活し たということだったが、避難所につくとNTT の移動基地局が設置されていて普通に携帯電話 が通じ、試しに持っていったPocket WiFi も つながった。出口先生からレクチャーを受けて いた災害用のトイレも水洗便所が復活したため 使わずにすんだし、申し送りにあったような電 力が不安定になることも経験せず、避難所にお いてライフラインは大方復旧していた。

第3 陣の申し送りでは、避難所は落ち着いて おり感染症もないということだったが、2 週間 我慢していて悪化した外傷、デブリ、縫合処置 を要する人、片付け中の外傷、釘踏み抜き症、 犬咬傷など、破傷風トキソイドが必要な方も結 構いるということだった。釜石で破傷風が2 例 みられたということで、3 週目になっても外科 医のニーズがあり役に立てそうだと思った。実際のところはそれほど外科医の活躍する場面は なかったが、仕事をしている証拠写真を患者さ んの承諾の元撮らせていただいた(写真2))

写真2)

写真2)

4 月1 日から保健師さんたちの人事異動、調剤 薬局の開設、地元の開業医の道又先生の参入な どめまぐるしく状況が変化していた。道又先生 とは親しく交わることができ、元気をいただい た。医院再建が町の復興のシンボルになるよう にとがんばろうと、同じく被災し落ち込んでお られた地元の開業医、藤丸先生を励ます姿に胸 を打たれた。4 月3 日からは山内肇医師が、また 北上で開業されている小児科の平野先生、藤丸 先生も毎日ではないが診療に加わることになり、 4 診まである充実した陣容となった(写真3))。

写真3)

写真3)左から袰地、嘉数、山内、真榮城、長浜、比屋根、饒波、道又、山代

避難所の変化

避難所は最初のうちは申し送りの通り、落ち 着いている印象だったが、花粉症が激増するとともに、内外のdust により呼吸器症状を訴える 人が増えて夜中に咳き込む人が増えてきた。栄 養も炭水化物に偏っており、タンパク質やビタ ミン摂取が不十分で栄養状態が悪化してきてい るようだった。運動も十分でなく、しかもほか の避難所の閉鎖により今後人数が増えていくこ とが予想されたので(結局そうはならなかった が270 名から300 人増の600 人近くという情報 があり)感染症やDVT、廃用萎縮などの患者さ んが増えることに危機感を抱いた。3 陣までは3 日に2 件程度の搬送だったが、4 陣からは、肺 炎、敗血症、高度脱水を伴う尿路感染症、転倒 による骨折などなど、連日の複数回の救急搬送 で、避難民の不安も増していることを耳にした。

保健師からも震災後3 週間を過ぎ弱ってきて いる人が増えていると報告があり、われわれも 夜に避難所を回診し、状態の悪い人、気になる 人を保健師との間でダブルチェックをはじめた (写真4))。

写真4)

写真4)

(一ヶ月後、沖縄大学の学生を連れて避難所 を再訪したが、このとき搬送した患者さんたち が皆お元気だと確認でき安堵した。しかし避難 所の状況が大きく好転しているようには思えず 今後を心配している。)

寒さ、余震、栄養不足、運動不足、花粉、粉 塵、避難所でたまるストレスから逃れるために 沖縄県への一時避難をおすすめしたいと思って いたが、沖縄県は本気で1、2 ヶ月の移住を支 援しているということであったため、玉城先生の指示により比屋根先生とともに町災害対策本 部をたずね沖縄県が被災者を受け入れる用意が あること、医療班がそのためにお役に立ちたい ということをお伝えした。様々なハードルがあ り、集団での疎開は実現しなかったが、仮設住 宅の早期移住の見通しが立っていない今も沖縄 疎開のニーズはなくなっていないと個人的には 思っている。

大槌から帰ってきて

4 月6 日、あっという間に1 週間がたち、気に なることをそのままに大槌を去ることになった。 ご挨拶がてら、大槌の現状を直接お伝えしたい と、釜石の対策本部を訪ねした。お忙しい中、 本部長の寺田先生にわざわざ見送っていただい た(写真5))。妹一家とも会うことができた。

写真5)

写真5)左から山内、真榮城、山代、寺田災害対策本部長、袰地

4 月7 日、真榮城君と二人沖縄に帰ってきた。 しみじみと帰る家があってよかったと思った。 そういえば古巣の岡山のチームはどうしている のかなと、メールをしてみた。ちょうど大槌で われわれが医療活動していた時期に、岡山県派 遣第5 陣医療班として大船渡で医療救護活動を 行っていたらしく、人的余裕のない病院なのに がんばってるんだなあとうれしく思った。自分 も家族を始め多くの人の支えで人生を変えるよ うな貴重な体験をすることができた。この経験 を生かし長く被災地の復興にかかわっていきた いと思っている。最後になりましたが稿を終え るにあたりこのような機会を与えていただき、 お支えいただいた医師会、関係者の皆様に御礼 申し上げます。