伊江村立診療所 阿部 好弘
3 月20 日(日)に県医師会の第2 陣として、 那覇空港を出発した。
我々のメンバーは私を含む6 名。宮古島の下 地診療所から打出啓二医師と事務の佐久川卓 君、皮膚科で開業されている桑江朝二郎医師、 豊見城中央病院勤務の小山かおり看護師と上仁 香奈看護師である。
打出医師は、阪神淡路大震災や世界各地の災 害を経験しており、頼もしい存在である。佐久 間君は自衛隊出身で、過酷な環境はものともし ない強者で、これからの1 週間は皆の食料調達 の要となる。桑江医師は岩手医科大学出身で、 思い出も多い土地とのこと。土地勘を働かせ有 力な情報を提供してくれることとなる。また、 皮膚科の専門性を生かしながら、子ども達に風 船の芸を披露し、被災地の子ども達に笑顔を提 供してくれた。小山看護師は整形外科病棟で働 いている。テキパキした動きと心遣いで診療以 外でも助けてくれた。上仁看護師は普段は循環 器病棟で働くが、被災地での過酷な環境の中で、 彼女独特の雰囲気で我々を和ませてくれた。
3 月11 日(金)に津波・地震が東日本を襲っ たとき、私はテレビでその情景と人々の姿を見 て涙せずにはいられなかった。以前、新潟中越 地震や台湾地震での医療支援の経験があるが、 今回は伊江島という離島からは支援に行くのは 困難だろうとあきらめていた。土・日に島で救 患対応をし、月・火と日常の外来をこなしなが らも、東日本震災への思いは徐々に強くなって いた。いてもたってもいられないという気持ち だろうか、15 日(火)の午後、気がついた時に は県医師会に電話を入れていた。ちょうど第2 陣の募集を行うところとのことで、私の電話で の派遣申し入れを快く引き受けて下さった。
すぐに、伊江島での医師応援の調整をし、何 とか私の不在中の診療をお願いすることができ た。彼らの応援がなければこの派遣は実現でき なかっただろう。
我々は、羽田で飛行機を乗り換え、花巻空港 に午後5 時頃に着く。箱詰めの多くの物資(薬 品、食品など)を自衛隊の車両に移す。汗だく になりながら花巻のひんやりした空気を肌に感 じる。
車両の後に座って現地に向かう。真っ暗な幌 のついた後部車両の中で、隙間から吹き込む冷 たい風に東北の寒さが徐々に身にしみてきた (写真1))。
写真1)
釜石市を経由して海岸沿いに大槌町に向かう のだが、幌のビニールの窓から災害地の悲惨な 情景が暗闇の中に徐々に広がってきた。大槌町 内にようやく入り、自衛隊員も道に迷いなが ら、自家発電で唯一灯りのともる大槌町の城山 体育館に到着したのは夜の8 時過ぎだった。
第1 陣の医療スタッフが迎えてくれ、出口医師から申し送りを受ける。その日は温かいけん ちん汁をごちそうになる。温かい食料があった のは意外だった。早々と寝袋に入るが、あまり の寒さに時々目を覚ます。夜中2 時頃、余震で 建物が揺れるのを感じる。
明け方、6 時過ぎには目が覚める。ペットボ トルの水を一口だけ口に含み歯磨きをし、顔は ウエットティッシュで拭く。
外に出て、町を見渡し、その悲惨な情景に息 をのむ。近くの小学校の校庭には津波で流され てきた車が散在していた(写真2))。裏山の方 からは町全体が見渡せるが、ほとんど建物は残 っていない(写真3))。大槌町は津波と同時に 火災も同時に発生しており、その焼け跡は手つ かずの状態だった(写真3))。
写真2)
写真3)
写真4)
電気は東北電力の自家発電でまかなっており (写真5))、避難所に水は支給されていたが(写 真6))、付近の民家は川の水を利用していた (写真7))。体育館内のトイレは水が使えず、紙 で包んでビニール袋にひとまとめにしていた (写真8))。体育館内のトイレは避難者用と考 え、我々は屋外の簡易トイレ(名古屋からのイ スラム教徒ボランティア団体が設置)をほとん ど使用することになる(写真9))。
写真5)
写真6)
写真7)
写真8)
写真9)
体育館内に避難されている方々は約700 名 で、2 階には自衛隊、救急隊、役場職員の大槌 町対策本部が設置されていた。
以下、1 週間の活動状況を記す。
外来は、67 名。高血圧、糖尿病など慢性疾 患の方が多く、必要最低限の内服薬を2 〜 3 日 間分ずつ処方する。他に、発熱などの感冒症状 もある。
カルテは一人一人に診療録を作成し、前回の 受診状況がわかるようにする。
往診は、かみよ・稲穂会館と小槌多目的集会 場の2 カ所。発熱、腹痛の方を診察する。
午後6 : 30 より地元の保健師さん5 名を交 えてミーティングを開始する(写真10))。彼女 らは被災以来、この避難所で働き自宅には戻っ ていない。また、その自宅も流されてしまって いる。彼女らから被災当時の状況が生の声で伝 えられ、我々は言葉もなく、ただ耳を傾けるだ けだった。ミーティングの後、スタッフはお互 い感じたものがあり、この人たちのためにも頑 張ろうという気持ちで一つになった。
毎日の診療の記録をその日のうちにまとめ、 翌日に釜石市の合同庁舎からFAX を送ること にする。そのなかに現在不足する医療品をリス トアップする。
通信手段は衛星電話を持ち込み、県医師会と の交信は可能となっていた。
写真10)
外来は69 名。昨日の脳梗塞疑いの方は点滴 と内服にて症状が改善している。
心臓手術後の6 ヶ月の男児の発熱症状も改善。
往診はケアプラザ大辻あかね会22 名。骨折 の患者を製鉄記念病院へ搬送。
避難所は各地に散在し、大槌町で36 カ所。 ガソリンなどの燃料がなく動けない状況であ る。この日はこの地区に津波警報がでたようだ が、我々には情報がなかった。後から注意報に 変わったとの連絡があった。
昼に岩手県釜石市医師会長の小泉嘉明医師と 副会長が訪問。地元の小児科医の藤井医師も挨 拶に来られる。また、沖縄のMESH 代表の小 濱医師も挨拶に来られる。
避難所の個人宅には自衛隊が訪問し避難者の 確認を行っているが、個人宅には物資が届いて いないとのこと。集会場まで取りにくるように 呼びかけているようである。
外来80 名。小児の熱性けいれん、右膝挫傷、 左足膿瘍などもある。患者利用の巡回バスも開 始となり、午前中の初診の方も増えることが予 想された。
往診66 名。金沢支所、金沢改善センターの 2 カ所。慢性疾患の処方がほとんど。避難所で の生活に疲れているはずなのだが、ご高齢の 方々の明るい笑顔が印象的だった。一人一人の 訴えを十分に聞き、少しでも彼らの気持ちが安 らぐように対応した。
本日より、町のつくし薬局が救護所の隣で開 設する。今までと違い、処方の手間がなくな り、かなり当方の負担が減った。小児の上気道 炎などの約束処方も取り決め、薬剤の調達が現 地で可能となりそうである。
午後5 時から、釜石市対策本部での会議に参 加(写真11))。各避難所の状況確認と医師派遣 の調整を行っている。対策本部の小田島さんか ら今後の予定を聞かれ、現在第5 陣までの派遣 チームが予定されていることを伝える。引き続 きの医療支援をお願いされる。
保健師さんのお一人が、流された家の中から 唯一、結婚式の時のアルバムが見つかったとう れしそうに報告してくれた。そのアルバムは、 泥と火災で真っ黒になっていたが、中はかろう じて写真が残っていた。彼女の数ヶ月前のなく なられた父親の写真も残っており、大切そうに写真を乾かしていた。
写真11)
外来59 名。慢性疾患の処方。上気道炎、花 粉症が多い。
往診27 名。大ヵ口集会場。上気道炎が多い。 時間外7 名。
弓道場で医療活動をされている地元の植田医 師が来られ、お互いの労を労う。
午後5 時の対策本部に出席。各避難所に複数 のチームが入っているため、調整をお願いする。 大槌高校の救護所の医療スタッフは、被災当時 から大槌病院の職員が働いていたが、疲労と家 族の確認などのため明日から休みに入る。その かわり大阪府医師会が常駐することになる。
午後7 時から保健師3 名を含むミーティング で、午後に開催された地元開業医による会議の 報告がある。1 カ所に医師が常駐するより各ヶ 所に医師を展開させ、地域住民が歩いて受診が できる体制がいいとの事。そのため、被災にあ った地元開業医は避難地区を中心に医療活動を 継続していく。また、今後、大槌地区には大槌 病院が必要という声が出ている事から、仮設の 病院の話がでている。しかしその道のりは長 く、我々(沖縄県医師会)は、地元の診療の再 建を願い、そのお手伝いができたらと思う。
外来70 名。時間外2 名。往診なし。
1 歳児の嘔吐による脱水症状があり点滴にて 症状改善。統合失調症の58 歳女性を桑江医師 が保健師とともに釜石厚生病院へ搬送。
18 : 40 に隣の避難所で吐血・出血性ショッ クの患者が発生。小山看護師が輸液を確保し、 呼吸状態が悪いため打出医師も伴い製鉄記念病 院へ搬送する。
午後5 時の釜石市対策本部へ私と上仁看護 師、佐久川事務担当が参加する。
午後7 時は地元の保健師3 名と宮崎保健所の 保健師3 名を交えてミーテーィング。避難所内 での感冒症状、血圧上昇があり救護所の受診を 勧めている。被災者へのイソジンガーグルの配 布をする。屋外のトイレに消毒薬を設置する。 医療廃棄物は持ち帰る事にし、翌日宅急便で沖 縄へ送る事にする。
午後8 時に第3 陣が無事到着。保健師さん達 への紹介と申し送りを行う。
3 陣に持ってきてもらったアルバムを、先日 の保健師さんにプレゼントする。
夜中、2 時頃に不眠症状の方が救護所を受診 される。胸がドキドキするなどの不安症状も伴 っているようだった。
午前中は、第3 陣に引き継ぎを兼ねて診療を 行う。
午後に、この1 週間我々の医療活動を支えて 下さった、いつも明るい笑顔の保健師さんや薬 局の方々に別れを伝えて、後ろ髪を引かれる思 いで帰路に向かった(写真12))。この被災地で 明るく前向きに頑張る彼らの姿には、本当に頭 の下がる思いであり、きっと復興の道が開けるとの希望が見えた。
最後に、この度、災害医療支援の機会を与え て下さった県医師会の皆様にお礼を申し上げま す。また、不在中の伊江島診療所のスタッフ、 不在中の支援を下さった北部地区医師会病院救 急部と地域医療支援センターの諸見医師、また 現地で共に仕事をしたスタッフの皆様に感謝し ます。そして、この活動が地元の本当の復興に 向けて長く支援していく事ができます事を心よ りお祈り申し上げます。
写真12)
※おことわり
地震の名称は「東北地方大平洋沖地震」です が、当コーナーでは地震による津波や火災、 原発によって引き起こされた震災に関しまし ては、「東日本大震災」の名称で統一するこ とといたしました。