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東日本大震災・岩手県大槌町における医療支援報告(第3陣報告)

長嶺信夫

長嶺胃腸科内科外科医院 長嶺 信夫

東北は厳しい寒さだった。

3 月25 日(金)16 時過ぎに花巻空港に着く と、我々を大槌町の被災地まで搬送してくれる 陸上自衛隊第192 特科大隊本部管理中隊久保 田陽介中隊長以下8 名の隊員が待っていた。

沖縄県医師会の医療支援班の第1 陣は、羽田 から東北自動車道をレンタカーで夜通し運転 し、岩手県盛岡市に入り、その後、危険な雪道 を大槌町まで踏破、第2 陣は花巻空港まで空路 を利用、その後自衛隊のトラックで現地入りし たとのことであるが、我々第3 陣は花巻空港か ら2 台の自衛隊ジープに分乗し、荷物だけトラ ックで運んでもらうことができた。

花巻から遠野市を経由し、仙人峠を越え、釜 石市に入り、さらに釜石から北上したのである が、車のライトで照らされた海岸沿いの住宅地 (?)はすさまじい「がれきの山」に変貌して いた(写真1)

写真1

写真1.大槌町および釜石市の被災地図、朝日新聞より。

大槌町の城山にある中央公民館・体育館の避 難所に午後7 時38 分到着、早速第2 陣の支援 班、保健師と顔合わせを行い、簡単な申し送り をうけた。夕食は第2 陣が準備してくれたレト ルトカレー(これが最高の食事)で済ます。就 寝前に被災者が寝泊りする体育館や通路の様子 を確認、さらに滞在中使用する例の災害時用簡 易トイレを覗く。トイレで水は出ない。就寝 時、第2 陣の某医師のいびきに閉口するも、何 時の間にか寝入っていた。

2 日目(3 月26 日)、6 時起床、スナックパン で朝食をすませ、ミーティング。その後、第2 陣から引継ぎを受けながら、診療を開始。診療 開始早々、3 月11 日の地震・津波襲来時、転 んで左下腿を挫創した90 歳の老人(男)が受 診した。傷は長さ約12 センチ、巾2.5 センチ、 深さは皮下脂肪組織におよぶ挫創で、皮膚は黒 色に変色していた。受傷後2 週間、医療を受け ることができなかったのである。周囲組織への 感染拡大を防止するため、早速広範なデブリー ドメントをおこない、一期的に縫合閉鎖、第3 陣ではじめて持参した破傷風トキソイドを注射 し、抗生剤を処方した(写真2)。

写真2

写真2.避難途中に下腿にけがをした老人の外科処置。

被災者の疾患は高血圧、心疾患、糖尿病など の慢性疾患や花粉症などアレルギー疾患が多いが、時々震災やがれき撤去時に受傷した外傷患 者が来る。震災現場では「何でも屋の医師」が 重宝される。診療の際、被災者の悲惨な体験を 聞き、心がいたむ。まさに地獄である。

第2 陣が12 時過ぎ帰路につき、その後は第3 陣のみの診療となる。

午後、雪がちらつく中、沢山地区の往診にお もむく。地震当日、平地の住宅地から離れた山 あいの作業小屋にいて、被災をまぬがれたのだ が、息子が津波で行方不明になり、3 日間小屋 から捜索のため海岸へかよい、さまよい歩い た。しかし、遺体を発見することができず、そ の後、過労と心労のため寝たきりになった年老 いた男性であった。往診の際、車中から見たの は、大槌町の中心部だけでなく、河口から離れ た大ケ口地区でも川沿いの多くの建物が跡形も なく流出している惨状であった。

夕食時、体育館、武道館を見て回る。被災者 の食事はおにぎり1 個、マルハソーセージ1 本、 野菜ジュースひとつ、小さなパン2 個であった。 ちなみに、当日の朝食はおにぎり1 個、おかゆ 1 杯、サバ缶1 個、ヤクルト1 個で昼食の配給 はなく、朝のおにぎりを残し、昼食べる状態 で、筆者が現地を離れた3 月31 日まで昼食の 配給はなかった。

仮設診療所の日課は原則として、朝9 時か ら午後5 時までが診療時間であるが、診療時 間にかかわらず診療をし、午後5 時からは釜 石市で開催される釜石市災害対策本部保健医 療班会議に交代で医師1 人と事務員が出席、 その後、我々医療支援班と地元および宮崎市 派遣の保健師、調剤薬局の薬剤師との合同ミ ーティングをおこない、情報交換をする日課 であった。

ちなみに、我々第3 陣の医療支援班は「まち だ小児科」の町田孝医師、「ハートライフ病院」 の仲地ひろみ看護師、遠い石垣市から「にいむ ら内科胃腸科クリニック」の松本亜希看護師、 「豊見城中央病院」の大湾朝太事務員と筆者の 5 人体制で、皆慈愛に満ちた優秀なスタッフで あった(写真3)。

大槌町の被災状況

第3 日目からは午前6 時起床、洗顔後、診療 前に町田孝医師と時間を調整し、精力的に被災した市街地に入り、建物の破壊状態をみてまわ った。

写真3

写真3.第3 陣のメンバー。前列左から大湾朝太事務員、町田孝医師、後列左から松本亜希看護師、仲地ますみ看護師、筆者。

現地は防潮堤が決壊し、鉄橋や線路が流さ れ、町のいたるところがまだ水につかっていて いた。また津波後の火災でむきだしになった赤 錆びた鉄骨、ひしゃげた車やばらばらになった 材木などで「がれきの山」が築かれていた(写 真4、5、6、7)。

写真4

写真4.大槌町中心部の衛星画像。左端の白い建物が城山体 育館・中央公民館。画面中央右上方の逆L 字型の白い建物が 大槌町役場、右端は決壊した防潮堤。鉄橋が流失し、橋脚の み残っている。Google の画像から。

写真5

写真5.被災した大槌町役場、町長以下7 人の課長も死亡。

写真6

写真6.大槌駅跡から見た被災地。駅舎も流出。線路上にあ る家は遠くから流れてきたもの。

写真7

写真7.破壊された防潮堤、陸側(右)は津波の引き潮でえ ぐられ、陥没して池になっている。左側の杭状のものは破壊 された鉄橋の橋脚。

被災前の大槌町の人口は平成23 年3 月1 日 推計で、15,239 人であるが、今回の地震・津 波でこのうちの1 割が死亡ないし行方不明にな っている。役場職員も139 人中33 人が死亡・ 行方不明、加藤宏暉町長および課長7 人も死亡 している。小学校も7 校全部が被災し、このう ち山手にあって比較的被害の少なかった大槌小 学校でも一階天井付近まで津波が襲来し、ま た、津波に伴った火災で校舎の半分が炎焼して いる。大津波警報が発令された後、大槌小学校 では、全校児童が隣接した高台の城山体育館や 中央公民館(震災後仮設診療所ができた)に避 難、または親が迎えに来て学校を離れた。しか し、高台に避難した児童は全員無事だったが、 親が迎えにきた児童7 人が津波で死亡したとい う。中学校2 校も被災し使用不能、大槌川北側 の高台に建てられた大槌高校のみが被災をまぬ かれたため、その後避難所として使用され、同 所で県立大槌病院のスタッフが診療にあたって いた。

被災前の大槌町の医療機関は県立大槌病院 (医師3 人)のほか診療所が内科系5、外科系1 であったが、すべての医療機関が被災し、壊滅 状態であった。

我々第3 陣が引き上げた後、大槌高校で診療 に従事していた県立大槌病院のスタッフが4 月 25 日から小槌神社に隣接した町の「ふれあいセ ンター」を仮設診療所にして診療を開始し、ま た被災した大槌駅前の道又内科小児科医院の道 又衛医師が5 月から大ケ口地区に仮設診療所を 開設し、診療を始めると話していた。しかし大 槌町の全医療機関が壊滅した後であるだけに、 今後の医療体制を整えるのは至難の業である。

岩手県の医療の現状

岩手県はこれまでも医療体制で多くの問題を かかえてきた。この10 年間の政府の医療政策の つけが集約された状態といえる。激務のため県 立病院で働く医師の離職者が多く、医師の確保 など医療問題は県政の大きな課題になっていた。

岩手県は全国で北海道に次ぐ広い面積を持 ち、四国のうち徳島県を除くほかの3 県の面積 よりも広い。県内に25 の県立の医療機関があ り、太平洋沿岸部には基幹病院として、久慈、 宮古、釜石、大船渡病院があり、基幹病院を補 完する地域病院として大槌、山田、高田病院が ある。このほか宮古市田老地区に宮古市立田老 診療所がある(写真8)。

写真8

写真8.岩手県沿岸部の医療機関分布図。NHK ・ETV 特集 「医療崩壊地帯を大地震が襲った」から。久慈、宮古、釜石、 大船渡は基幹病院。山田、大槌、高田は地域病院。田老は宮 古市立の診療所。地域病院と田老診療所は壊滅した。

岩手県では、厳しい医療体制のなか、医療資 源を集約化するため平成21 年に一部の医療機 関を無床化する方針を決定したのであるが、県 内各地で異論が続出、県議会は紛糾し、県知事 が議会で土下座する前代未聞の事態がおこって いた(写真9)。

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写真9.県議会で土下座する岩手県知事。NHK ・ETV 特集 「医療崩壊地帯を大地震が襲った」から。

平成20 年度の厚労省のデータをもとに昨年 NHK が作成した資料によると、人口1 万人あ たりの医療従事医師数は、全国平均が21.3 人 であるのに対し、大槌町5.1 人、山田町4.7 人、 陸前高田市8.0 人であり、岩手県の基幹病院が ある釜石市は16.5 人、宮古市でさえ15.1 人で あった(写真10)。

写真10

写真10.人口1 万人あたりの医療従事医師数。全国平均は21.3 人である。NHK ・ETV 特集「医療崩壊地帯を大地震が襲った」から。

震災後の4 月1 0 日に放送されたN H K ・ ETV 特集「“医療崩壊地帯”を大地震が襲っ た」のなかで、今回の地震・津波で壊滅的な被 害をうけた宮古市立田老診療所に10 年前に赴 任し、現在1 人で外来および入院患者を診察 し、その上、訪問診療も実施してきた黒田仁医 師は、「地域医療を1 人で担うのは困難だ」と 医師の増員を求めてきたが実現していない状態 に、「2 月に宮古市長に辞表を提出しているが、 医師の募集もしていない状態が長く続いてい て、こちらの仕事も見に来ないし、話し合いも ない」と嘆いていた。今回の津波で黒田医師自 身自宅も車も流され、被災している。「辞表は 撤回していない」と話しつつ、仮設診療所で診 療を継続している姿を放映していた。

ちなみに、新聞報道によると、津波に襲われ た岩手、宮城、福島3 県で沿岸部を中心に少な くとも118 の医療施設が壊滅的な被害を受け、 岩手、宮城で医師11 人が死亡し、3 人が行方 不明になっている。今回の地震・津波で岩手県 は沿岸部の県立山田、大槌、高田の地域病院が 壊滅的被害をうけ、大槌町では県立および民間 の全医療機関が壊滅した。このように今回の地 震・津波は多くの医療問題をかかえていた地域 を直撃したのである。

沖縄県医師会の医療支援は何時まで継続すべきか

現在東北地方の被災地で医療支援班の引き上 げが始まっている。被災地の初期救急医療を担 うDMAT がすでに撤収し、その他多くの医療 支援班も現地の医療機関に医療の主役を引き継 いでいる。現地の医療機関が十分機能を維持で きるのであれば、それにこしたことはないので あるが、個々の被災地でその状況はおおいに異 なっている。

今回、大槌町の被災地で医療支援を行った経 験から、現地の医療体制が整うにはまだかなり の期間が必要と考えている。今回多くの医療支 援班が診療拠点を持たず、また、医療支援も継 続性・連続性が乏しく、十分統制が取れていな かったのに比較し、沖縄県医師会の医療支援班 が診療拠点を持ち、中断することなく診療を継 続していることは現地対策本部で高く評価され ているという。今後も現地の実情を十分把握す るとともに、現地の要望を最優先に考慮し、可 能なかぎり医療支援を継続すべきと考えている。

最後に、今回の大震災で亡くなられた方々の 御冥福を祈るとともに、被災者の皆様が一日も 早く、元気を取り戻すことを祈念いたします。 多くの日本国民が皆様を支援しています。とも に頑張りましょう(2011 年4 月28 日記)。