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『孤高の人』新田次郎著 新潮文庫(上・下)

宮良長治

宮良眼科医院 宮良 長治

「なぜ山に登るのか?」「そこに山があるか らだ。」このあまりにも良く知られた問答は登 山家ジョージ・リー・マロリーが二度のエベレ スト登頂に失敗し、三度目の挑戦を行おうとし た際に、ある新聞記者から質問されて生まれ た。結局マロリーは夢を果たせず、その三度目 のエベレストで命を失うことになる。エベレス ト登頂が成し遂げられたのはそれから30 年も 後のことであり、それがいかに過酷な試練であ ったかがわかる。日本でもやはり山に命をかけ た人間は昔から数多く存在する。なぜ山に登る のか、この永遠の命題は多くの文学作品を生み 出すことになった。今回私が皆様にご紹介した いのは、山岳小説界の大御所、新田次郎氏の代 表作といえる『孤高の人』である。実在した不 世出の登山家、加藤文太郎の生涯を辿る長編で あるが、ほとんどノンフィクションといってよ く、自身も登山家であった新田氏の緻密な取材 によってこの小説は生まれた。主人公の加藤 は、高等小学校卒の学歴ながら造船技師にまで 登りつめた努力の人だった。忙しく責任のある 仕事をこなしながらも、登山にもう一つの人生 を見いだしていく。決して長くはない休暇のほ とんど全てを割いて、超人的な脚力で厳冬期の 北アルプス縦走など常人が一生かかっても成し 得ない程の山行を次々に成功させたが、それは 時には無謀な行為、売名行為として批判の対象 にもなった。厳冬期の山に入るのは現在でも至 難の技であり、毎年のように遭難者を生み出し ている。昭和初期当時、装備、気象情報などは 当然現在よりはるかに貧弱だった。それでも加 藤は、ありとあらゆる努力を惜しまず、自らの 信念と経験に基づいた創意工夫を凝らし、必ず 無事に生きて帰り、全ての挑戦に失敗すること はなかった。彼は、周囲の雑音、世間の思惑な どからは全く超越した次元を歩んでいたのであ る。何故山に登るのかについて、加藤は自問自 答を繰り返すうちに、結局山そのものの中に自 分を再発見しようとしているのだというところ にまで意識を昇華させていった。それはだれ一 人として同じ答えがないであろうこの間いに対 する一つの見事な解答といえよう。日本でこれ 以上はない困難な山行を成功させてきた加藤は 更なる高みを求めて、いつの日にかヒマラヤ へ行きたいという壮大な夢を持ち、肉体と精神 を一段と強化しつつ、倹約を重ね膨大な額の貯 金をするまでに至った。山に関する行動では加 藤は常に独りだった。あまりにも突出した実力 と強い意志が他人を寄せ付けず、その結果が必 然的に「単独行の加藤」を生むことになった。 そこにはまた加藤自身の性格や人生観も大きく かかわっていた。やがて家族を持ち、危険な登 山からは遠ざかりつつあった加藤が、やむにや まれない事情でたった一度だけ、二人で厳冬期 の槍ヶ岳へ向かうことになった。これ以上はこ の本を読もうという方のためにあえて記さない が、生死を分かつ極限の状態においてこそ示さ れた加藤の人間としての大きさは、読む者を 引きつけずにはおかないだろう。私がこの本 に出会ったのは高二の時だったと記憶してい るが、多感な青春時代の私の人生にも大きな 影響を与えた。その頃、世界の登山界を席巻 した超人ラインホルト・メスナーが、単独、 酸素ボンベなし、無線機なし、ロープなし、 サポートする人もなしという極限状態でエベ レスト登頂を達成した。メスナーは、後に世界に14 座ある8,000 メートル超の高山全て の登頂を人類で初めて達成することになった が、その全てに酸素ボンベを使用しなかっ た。加藤も時代と条件が許せばこのメスナー のような登山家となり得たのではないか。こ の二人の「孤高の人」の生き様は、私にはど うしてもダブって見えるのである。彼らの凄 まじいばかりの精神力とそれを支える強靭な 肉体に対する憧れは、大学時代の私を、第1 回から連続3 回の宮古島トライアスロンへの 出場、完走にまで駆り立てることになった。 そして医師となった今、自己管理、危機管理 のあり方、自らの経験に即した独創的考察の 重要性、最後に頼れるのは自分自身しかない という現実などこの本から学んだことは多 い。それだけではなく随所に示される自然描 写の素晴らしさも新田氏の得意とするところ で、加藤の山行を疑似体験しているような気 分になれる。三好達治の詩ではないが「志お とろへし日は」もう一度この本を読み返し、 若き日の情熱を思い出し励みにしている次第 である。この本に共感できる読者諸氏には、 本著と共に、同じく新田氏の三部作ともいえ る傑作『栄光の岩壁』、『銀嶺の人』の読了を 是非お勧めしたい。