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旅先にて、好きな小説家は誰ですか

安里哲好

中部地区医師会会長 安里 哲好

アガサ・クリスティーの「オリエント急行の 殺人」の一部を模した旅と言うわけではない が、ウィーンからイスタンブールまでの汽車の 旅をした。旅の何日目かに、セルビアのレオグ ラード駅を朝6 時50 分に出発し、ブルガリア のソフィアに向かった。その汽車は通路が進行 方向の左側にあり、客室が3 人掛けのボックス タイプで、等級はなかった。汽車が出ると同時 に、バックパックを担いだ女性が入ってきた。 私は、相手の顔を見ないように、いや自分の顔 を隠すようにして旅行ブックに目を通してい た。女性はバックパックを置き、通路に出て広 い窓の外の景色を見ながら朝食を取っているよ うだった。しばらくして、客室に入ってきて何 やら本を出して読んでいた。次の駅で、男性が 荷物と3L のお茶のボトルを持って入ってきた。 ヤァーと言い、お互いハグし頬を寄せ合い、久 しぶりの再会を喜び、語り合っているようだ。 その内、男性は私に語りかけてきた。いや、女 性の方が、最初に語りかけてきたかもしれな い。男性は、最初にお茶と思った3L 入りボト ルのビールを勧めた。私は、日本では朝からお 酒を飲む習慣はありませんのでと断ると、ここ は日本ではないですよと言われ、再度、女性か らも勧められた。日本ではないし、旅先だから 良いかと思い、女性から差し出された3L のボ トルの口を拭き、なるべく接しないように飲 み、飲みたいやら、飲みにくいやら。白い肌、 金色の髪、青い瞳の中欧の女性を目の前にして も、少々アルコールが入りグループであること も手伝って、私の口も滑らかになる。

男性がカンフーンについて話すと、私は沖縄 の空手について話した。男性は沖縄を知ってい て、アメリカの基地のあるところだねと言って いた。女性と話しているうちに、女性は芭蕉の 俳句が好きだと言い、また、村上春樹の小説を 好んで読んでいて、新しい翻訳の情報が入ると 直ぐに手に入れて読むとの事。何処が好きです かと尋ねると、文章がシンプルで解りやすく、 それでいて、人の心の繊細なあり方を描き、黄 泉の世界との繋がりがあり素晴らしいと言う。 女性が好きな小説家は誰ですかと尋ねた。開高 健と答えようとしたが、どんな小説を書いてい ますかと問われるであろうと頭の中に浮かび、 答えられなかった。読んだ「オーパ!」、「地球 はグラスのふちを回る」や「ロマネ・コンテ ィ・一九三五年」は旅行記やエッセイ集で、小 説だろうかと思い、答えられずにいた。汽車の 上窓が開いており、小鳥のさえずりが聞こえた ので、問いに答えず、小鳥が素敵な音を奏でて いますねと呟いた。

帰国後、開高健の「裸の王様」を読み、あの 外観に似合わず繊細な文章を綴る小説家である ことを確信し、感嘆した。その本は、社会の価 値に押しつぶされそうな閉ざされた心を持つ少 年を、画塾の教師が絵を描くこと、そして自然 との触れ合いを通して少年の心を開放してい き、引きこもりと言う先取りされた現代社会に おける問題が数十年前にすでに描き出されてい る。画塾教師と登場する友人とは、違う考え方 と生き方が対比して設定されていた。また、画 塾教師が起案し、辞書を引きつつ難儀して英文 の手紙を書き、粘って何度も交渉したスウェー デンの子供達との絵の交流と言う企画を、会社 や社会が巧みに自らの事業目的に応じて変容さ せていく過程で、画塾教師は本来の主旨さえ伝 えられれば何も望まない真摯な気持が伝わって きた。

私の愛読書として、開高健の代表作「夏の 闇」にするか、遺作「珠玉」にするか迷った が、彼のノーベル賞作家大江健三郎と芥川賞を 競い合った作品「裸の王様」について書いた。 アァー、開高健よ、危険に満ちた旅にさえ出な ければ、酒と葉巻の日々を送らなければ、美食 や珍味を追求しなければ、高き所に昇れたのに と思うと同時に、高き所に昇っていたら、私が 開高健と言う小説家に出会えることも無かった かも知れない。