中頭病院 新里 敬
生年を加えると5 回目の卯年を迎えることと なりました。12 年ごとの区切りで、自身を振 り返ってみたいと思います。個人的な話で皆様 には大変申し訳なく思いますが、どうかお許し ください。
0 〜 11 歳(生後〜小学生):両親には迷惑 ばかりかけたのだと、今更ながら反省しきりで す。生後6 ヶ月から9 歳まで中耳炎を繰り返し ました。耳鼻咽喉科医が本当に少ない時代に、 耳漏が流れ出す私を抱えながら、夜中からでも 耳鼻咽喉科医院に駆け込んでくれました。ま た、何度も悪さを繰り返す私を、そのたびに悲 しい顔をしながら叱り飛ばしてくれました。あ の時がなければ、私は本当にダメな人生を歩ん でいたことでしょう。少しはまっとーばー(ま とも)な人間に育て上げてくれたこと感謝の念 が絶えません。子を持って知る親の恩。
12 〜 23 歳(中学生〜大学生):一番楽しか った時代、青春を謳歌しました。中学、高校、 大学と、本当に自分の思うようにさせてもら い、そこから非常に多くのことを学ばせていた だきました。生徒会活動、クラブ活動、アルバ イト(ほとんど就業状態?)。高校1 年生終わりに経験した1 ヶ月間の米国ホームステイと大 学2 年生の時に出かけたフィリピン研修は一つ の転機。この時期に学業以外のことをいろいろ と経験できたことが、そして、この時期に知り 合った数多くの友人・先輩・後輩、そして恩師 が、私の人生に大きな影響を与えたことは間違 いありません(だからこんな変な奴ができあが った?)。それまではおとなしくて、人前に出 ることが怖かった(本当です!)私が人前に出 られるようになったのはこの時期から。
24 〜 35 歳(社会人として):医師として働 き始めた私が入局先として選んだのは琉球大学 第一内科でした。若くして教授に赴任した斎藤 厚先生がバリバリに働き始めた頃のこと。厳し い指導を受け、たくさんの仕事をいただき、社 会人としての常識と礼儀も教えていただきまし た。私が今あるのもそのおかげです。自分の行 く道はいずこか、と思案し始めたのもこの頃。 そして、結婚。が、1 年余りして、妻と生後3 ヶ月後の長男を沖縄に残し、国際協力の仕事で ラオスへ。これ以上の我が儘で迷惑な男はいな いのでしょう。妻には頭が上がりません。
36 〜 47 歳(感染症診療と教育):この時期 の初めに行かせていただいた米国留学で、研究 者としての限界と自分の成すべきことを悟りま した。「感染症診療と臨床教育」が自分の仕事 だと決めた私は、帰国後学生や若手の教育に力 を注ぐようになりました。40 歳の時に始まった 初期臨床研修制度は、私の心を大きく揺さぶり ました。「実践なき理論は空虚である。理論な き実践は無謀である。」(P.F.ドラッカー)とい うプラグマティズムこそが臨床医学と考えた私 は、住み慣れた大学を離れ、初心に返って診療 の現場に出ることを決意。これが私の道だと。
48 歳以降:うさぎのかけっこも5 周目に入 り、さすがに走り飛び跳ねる力とスピードが落 ちてきました。これからの1 周で、自分が得て きたものを還元し、若い人たちが中心になって 動けるような体制を作っていきたいと考えてい ます。それが、私をここまで好き放題させてい ただいた両親や恩師や知人たちへの感謝の証となることを願って。
路頭に彷徨いかけた私をここまで導いてくれ た多くの方々には、感謝の念でいっぱいです。 「四十にして惑わず」と孔子は述べましたが、 私がいまだ煩悩から離脱できません。修行はこ れからだ、ということでしょうか。