中央外科 名嘉眞 透
60 歳になってみて、どのように感じますか、 という問いには、思っていた以上にスラスラと 答えが出てこない。ただ、今までの60 年間の思 い出が、連続性もなくバラバラに頭に浮かんで くるぐらいである。では、今後の人生はどのよ うに生きていきますか、という問いにも各論的 な話は出来ず、今後も今の診療所で地域医療に 貢献しながら、淡々と診療をこなし、好きな釣りとゴルフ、ボウリングを楽しんでいければと しか言えない。ただ、今後も自分の仕事に関し ては地域医療に貢献することには取り組んでい きたいし、それは社会からも求められているこ とであり、それによって自分の診療時間の少々 の犠牲は当たり前と考えているし、医師として 当然のことと思う。その様な気持ちで日々の診 療に携わってきたら、いつの間にか私どもの中 央外科は2010 年に開設50 周年を迎えていた。 私の還暦なんかより、大変意義のあることであ る。1960 年5 月15 日に中央外科は父である武 護が開設した。当時の父は開業できる金などな く、開業のための資金集めに大変苦労していた。 そこで友人に相談したところ、快く土地代、建 設費全額を融資していただき開業できた。父は 生前に苦労話をするとき、いつもその話をして おり、友人の大切さ、ありがたさ、そして名護 の人々に助けられたことを何度も話して聞かせ た。武護の護は父が名護で生まれたので付けら れた名前と聞いている。そのせいもあり、とに かく名護の人のためになりたいと言う気持ちは 人一倍強く持っていた。そして率先して、地域 医療への貢献に取り組んでいた。そのことは当 時および現在の医療関係者からも高く評価され ている。私はその様な父の足下にも及ばないが、 地域医療への貢献ということだけは忘れないよ う今後も診療に取り組んで行きたい。
本来、私は医師になるつもりはなかった。父 からは医学部を進められたが高校3 年の夏休み までは宮崎の航空大学校に入学しパイロットを 目指すために、身体検査で2cm ほど足りない胸 囲を大きくするのに腕立て伏せや当時はやった ブルーワーカーを盛んに行っていた。ある日、 何気なく診療する父の後ろ姿を見たときに、い つもの意気込みが感じられなかった。そのとき に、やはり医者にならないといけなかと私は感 じるようになった。しかし、今まで勉強不足の ため、久留米大学合格には2 年間の浪人生活を おくり、その間、自慢の視力が2.0 が0.6 に落 ちこんでしまった。高校時に本当に勉強してな かった証拠となった。卒業後、外科に入局しそこで私は医療知識、テクニックだけでなく、医 師としてのあるべき姿を教えていただいた中山 陽城先生に出会うことになった。大声で怒鳴ら れることもあり、丁寧に指導もしてもらい、一 緒に博多まで飲みに連れて行ってもらったり、 鮎釣りを教えてもらったりと私にとって全の師 である。中山先生を慕っていたのは、私だけで なくほとんどの医局員や他科の医局員も慕って いたすばらしい医師であった。しかし若干47 歳、胃ガンで亡くなってしまい、誰もが深い悲 しみに包まれた。今でも、妙なことでもたくら むなら天国から「こらー!なんしよるかー!」 と怒鳴られそうで、ここまでどうにか医者とし て仕事を続けられるのも中山先生のおかげです。
最後に、私は「仕事は楽しく、遊びは真剣 に」をモットーに、今後も細々と地域医療に貢 献していきたいと思います。以上が私のこれま でを振り返って書けることです。