沖縄県医師会 > 沖縄県医師会の活動 > 医師会報 > 1月号

還暦―私の原点回帰―

城間昇

しろま小児科医院 城間 昇

昨秋、京都での学会の帰りに下鴨神社を参拝 した。京都の風情を満喫するため、鴨川沿いの 散策道を四条から北上することにした。まだ蒸 し暑い昼下がりの頃だったが、堰の連なる川面 を渡る風は涼しく、紅葉前の秋を十分に感じと ることができた。小一時間も歩くと、こんもり と茂った杜を包み込むように、左側から加茂川 が、右側から高野川が鴨川へと合流する場所に 辿り着いた。目の前の杜が「糺の森」で、ここ から杜の奥の下鴨神社へつづく参道が始まる。 参道は杜のなかを鳥居まで真直ぐにのびてい て、その両側にふたすじのせせらぎが緩やかな 曲線を描いてそっと流れている。鳥居の奥の朱 塗りの社殿は背景の杜の緑と地面の玉砂利の白 に映え、その荘厳な佇まいは参拝する者すべて に畏敬の念を抱かせる。襟を正して二礼二拍手 一礼し、近況報告したのち改めてこれまでのお 礼を申し上げた。京都とくに下鴨神社界隈は私 にとって再出発の地であり、ことのほか思い入 れの深い地である。会社を辞して、この地で最 後の医学部受験に挑戦した。下鴨神社の裏手に 下宿し、下鴨神社の境内を経由して百万遍の京 都駿台予備校に毎日通学していた。文系からの 転向だったので医学部へのハードルは高く、状 況は殆ど絶望的だった。それでもこみあげる不 安を腹の底に押し込めながら、下鴨神社の境内 を抜けて予備校へ通い続けた。周辺の喧騒が遮 断されたこの境内を通るたびに頭上から「気」 が吹き込まれ、研ぎ澄まされた感性が徐々に漲 ってきた。そうして気力も感性も充実して春の 受験を迎え、奇跡的に突破した。だからこそ、 今ここにこうして医師として人生を全うできて いるのは、私だけの力ではないことは十分に承 知している。還暦は人生の暦の一巡、すなわち原点回帰だ。私の第二の人生の起点は京都にあ る。原点回帰する還暦の前に下鴨神社を参拝で きたことは、なにかと怠惰になりかけていた自 分の生き方に喝をいれる格好の機会となった。

さて閑話休題、還暦ということは5 回目の年 男ということでもある。私の場合、年男を迎え るたびに人生の大きな転機を迎えてきた。幼少 期から虚弱体質で学校には行きたがらず、肺に も影があったので学校体育は見学が多かった。 ところが1 回目の年男(12 歳)の時、担任の先 生から勧められた器械体操と短距離マラソンの おかげで、それ以降めきめきと体力がつき、引 っ込み思案もなくなり低迷していた学校の成績 は向上した。2 回目の年男(24 歳)の時は、ち ょうど会社を辞めて医学部受験に突入した時だ った。後には引けない、教科書から始めた挑戦 だったが不思議なくらい悲壮感はなかった。京 都から最後の挑戦をして、27 歳で医学部に入 学した。3 回目の年男(36 歳)の時、医師とし て沖縄に帰るべきか否か相当迷った。沖縄で育 っていない私は、親戚以外に親しい人はいなか った。それ以上に沖縄の医療事情を全く知らな かった。経験の少ない医者が通用するのか、勉 強は出来るのか等不安はいろいろあった。結局 沖縄を選んだのは、「自分だけの力で医者にな れたわけではない」ことを十分に承知していた からだ。この時、沖縄で必要とされる医師にな ろうと固く決心した。4 回目の年男(48 歳)の 時、豊見城の地で「しろま小児科医院」を開業 した。年齢的には遅い決断だったが、独立する にはそれなりの準備期間が必要だった。小禄の トンネル向こうの原野で開業した当時は、タク シーの運転手も知らない場所で説明するのに苦 労した。こんなややこしい所に患者がはたして 来院してくれるのか心配したが、それまでの経 験を生かして地道に丁寧な診療を心がけたので 患者は日に日に増えていった。さて、開業して 10 年以上が過ぎて、開業当初の新鮮な喜びが 徐々に薄れてきたことに危機感を感じ始めてい た時、今回の下鴨神社の参拝があった。この5 回目の年男(還暦)を契機に、原点回帰しようと思う。回帰すべき私の原点をあえて明言する と、「自分だけの力で医師になれたわけではな い」ということ。地域に密着した診療を心が け、子供たちが健康に成長して目指した夢が叶 えられるようしっかりとサポートしたいと思っ ているこの頃である。